デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年7月5日日曜日

朝ラン22キロ完走

 


孤独という名の自由と、魂の鎖を解き放つ夜明けの風

午前4時。今日もランニングに出かけました。 今日は西公園方面へと足を伸ばし、最後は若林区のコースを巡って帰宅する道のり。祈りを込めながら一歩一歩を重ねる、22キロの祈りのランです。休日の朝ということもあり、道中では思いのほか多くのランナーの姿を見かけました。

 


並走の熱と、やがて訪れる静かな孤独

流れる景色の中で、すれ違う人々は一体何のために走っているのだろうかと、ふと考えを巡らせました。 風を切る心地よさを求めて走る人。健康を願う人。あるいは、誰か大切な人のために走る人もいるかもしれません。しかし、その理由が何であれ、懸命に前へ進もうとするその姿そのものが、理屈抜きに良いものだと感じます。

走っている途中、たまたま同じ道沿いを誰かと並走することがあります。 すると不思議なもので、自分の心の奥底から静かな熱のようなものが湧き上がり、脚に確かな力が入ってくるのを感じるのです。共に前を向く存在が放つ、無言の励ましです。

しかし、「このままずっと一緒に走ってほしい」という微かな願いは、道半ばで崩れ去ります。彼らはやがてその日の走りを終え、歩き始めるからです。 以前、若林区の緑地にある陸上トラックを20周(20キロ)走った日のことを思い出しました。あの時も、最初は周りに人がいたはずなのに、気がつけば皆どこかへ行き、最後まで同じ道を走り続ける人は誰もいませんでした。

 


縛られない身軽さと「真の自由」

結局のところ、同じ道を最後まで走り抜いてくれる人はいません。 しかし、それは決して寂しいことではありません。なぜなら、一人のランこそが、誰のペースにも縛られずに気ままに走ることができる「自由な道」だからです。

私たちが生きる上で、この「自由に生きる」ということは、本当に大切なことです。

  • この世が絶えず要求してくる目に見えないプレッシャー
  • 終わることなく湧き上がる、欲という名の束縛


 

私たちは知らず知らずのうちに、これらに縛り付けられ、息苦しさを抱えながら生きています。イエス・キリストがこの世界においでになったのは、私たちがこれらの鎖から解き放たれ、欲に縛られずに満足して生きる「真の自由」を与えるためでした。

それなのに、一部の宗教家たちはそのせっかくの自由を、「掟」や「律法」という新たな拘束の道具として用い、再び人々の魂を不自由に縛り付けてしまっています。キリストが与えられたのは、人を息苦しくさせるルールではなく、大空の下を自分の足で軽やかに走り出すような、本質的な解放であったはずです。

 


掟ではなく、恵みの中を走る

誰かとペースを合わせるために息を乱す必要はありません。この世の掟や、人間が作り出した宗教的な重荷に縛られて立ち止まる必要もないのです。

すでに与えられている真の自由を胸いっぱいに吸い込み、気負うことなく、あなた自身の道を歩き出してください。魂の鎖は、もう解かれています。

今日は主の日の礼拝。 この尊い務めのために、私は一週間を走り抜いてきました。

そして今日、礼拝を通して新しい力をいただき、また次の一週間を走り出していく――その始まりの日です。

今日も、共に前進です。

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