✨ 朝ラン25キロと、風に揺れる洗濯物——名もなき営みに宿る光
■ 息を整え、日常に触れる朝
午前4時45分。 霧と湿気が街を薄く覆い、視界はぼんやりと滲んでいました。
その静けさは、まるで世界がまだ呼吸を整えているかのようで、 私はその中へそっと身を滑り込ませるように、いつものランニングを始めました。
ただ足を前へ運ぶだけのように見えるこの時間は、 私にとって「祈り」であり、「思索」であり、 そして「これからの人生を整えるための静かな準備」です。
今日の道のりは25キロ。 これで今週も100キロを超える距離を走り抜きました。(夏場は時間と距離を短くすると考えましたが、これだけは思い通りにならず・・・)
家に戻り、シャワー、栄養摂取、洗濯機を回し、掃除、洗濯物を干し、 風に揺れる布を眺めながら温かいコーヒーを一口含む。この一連の流れは、誰に見られるわけでもない、
ただの「名もなき日常の営み」です。しかし、疲労の奥にふっと灯る静かな満足感は、 私にとって確かな「生きている手触り」そのものです。
■ 大統領の決断と、洗濯物を干す手
ふと、こんな問いが浮かびました。世界の動向を左右するアメリカ大統領の重大な決断と、 いま私が終えたばかりの洗濯物を干すという小さな働き。
その価値に、差はあるのだろうか。答えは、はっきりしています。まったくありません。
地球は今日も静かに回り続け、 その上で生きる人々の営みは、どれも欠けることなく必要だからです。私たちには、命や働きの価値を測る権威などありません。
価値を決めるのは、私たちに命を与えられた神様だけです。
■ すべての命の営みは、等しく尊い
神様の眼差しを通して世界を見ると、 社会が勝手に作り上げた「優劣」という物差しは、静かに消えていきます。レジで人々の生活を支える人、夜明け前に新聞を届ける人、街を清潔に保つために重いごみを収集する人、家族のために台所に立つ人、病床で痛みに耐えながら今日を生きる人、どれも、神様が尊く見つめておられる「命の営み」です。
誰かの働きが欠ければ、 この世界の当たり前は簡単に崩れてしまいます。
地位や名誉、報酬の多さではなく、 「今日を生きるために汗を流すその姿」こそが、尊いのです。
■ 疲労を抱えながら、それでも歩く理由
生きている限り、 私たちの体から「完全な疲れ」が消える日はありません。
走り抜いた足には疲労が残り、 働き続ける肩には見えない重圧が乗り、 心には言葉にならない葛藤が沈殿していることもあるでしょう。それでも、私たちは歩み続けます。
なぜなら、 名もなき日常の働きの中にこそ、 神様が与えてくださった命の輝きが宿っていると知っているからです。誰に評価されなくても、
誰に褒められなくても、 その営みは神様の前では確かに光を放っています。
■ 今日という一日へ
疲労を抱えながら、それでも前へ進む私たちの姿は、 神様にとって何より美しい祈りです。名もなき働きの中にこそ、 神様がそっと灯してくださる希望があります。
今日も、共に前進です。
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