先ほど私たちが食べ終わるまでずっとこんな感じです。辛抱強い、と妻は言いますが・・・
一粒のチョコレートと心の空腹――永遠の「満足」を味わう余白
午前1時23分。真夜中の深い静寂の中で目を覚まし、今日という一日をスタートさせました。当然のことながら、時間が経つにつれて身体にはずっしりとした疲れが静かに蓄積していきます。二人の送り迎えがある日は、合間に腰を下ろしても、時間を気にしながら仕事を進めるため、心からゆっくりと休むことはできません。
ふと訪れた午後の余白。こういう天気の日は、お気に入りのジャズを静かに流し、温かいコーヒーと共に一口の美味しいチョコレートを味わいます。ほろ苦さと甘さが口の中で溶け合うその瞬間、ピンと張っていた身体の糸が少しだけ解けていくのを感じます。
繰り返される「心の空腹感」
このささやかな時間は、確かに心地よいものです。 しかし、「快適な環境」や「快適な生活」とは、一体何なのでしょうか。快適の基準は人それぞれであり、私たちはしばしば、快適さ以上に「満足感」を求めて生きているような気がします。
- 食べることができ、飲むことができる
- 安心して眠る場所がある
- 時間と、いくらかの余裕がある
これさえ満たされれば十分だと考える人もいるでしょう。 けれども、どれほど外側の環境が整っていても、それだけでは決して「心」まで満たすことができないのが、私たち人間という存在です。
上質なチョコレートや音楽でくつろいでも、一瞬、あるいはしばらくは満たされたように感じますが、やがてまた確実にやってくるのです。 ――深く、静かな「心の空腹感」が。
魂の飢えを満たすもの
私たちは、目に見えるものや物質的な快適さだけでは決して埋まらない、霊的な空洞を抱えて生きています。この世のどんなに素晴らしいものであっても、魂の底にある飢えを永遠に満たすことはできないのです。
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」 (ヨハネによる福音書 6:35)
私たちの心に空いた器は、創造主である神様ご自身の形をしています。だからこそ、神様の言葉と真実な愛によってでしか、その心の空腹感が根本から満たされることはありません。
日々の生活の中にあるささやかな「快適さ」は、確かに神様からの優しい贈り物です。しかし、私たちの本当の「満足」は、環境の良し悪しや手に入れたものによって決まるのではなく、命のパンである主を見上げ、その愛の内に静まる時にのみ与えられるのです。
今日は、娘が仙台でアルバイトの日。夜にはまた、彼女を迎えに車を走らせます。 時計の針を気にしながら、時間が来れば行動するパターンの生活は続きますが、夜の運転に向けて、今はほんの少しだけ身体を休めることにしましょう。すり減っていく体力と、ふと顔を出す心の空腹。その両方を抱えながらも、決して尽きることのない確かなパンで私たちを満たしてくださる存在に、静かに寄り頼んで。
今日も、共に前進です。
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