予期せぬ時代と雨の夜の営み:見えない明日を「淡々と」生きる
窓の外では、絶え間なく雨が降り続いています。 昼間に続く蒸し暑い日の中、遠く離れた場所では今も悲痛な捜索活動が続いています。ニュースからは、一度は外へ出たはずの人々が、なぜ再び店内に戻らなければならなかったのか、その痛ましい原因が徐々に明らかになりつつあります。会社の責任が問われることになる・・・・何が真実か?
この雨だれを見つめながら、私は深く沈み込むような思いとともに、今の時代が突きつけてくる重い問いに向き合っています。
「想定外」という言葉の前に立ち尽くす
私たちは今、予期不能の時代を生きています。次々と起こる、思いもよらない事故や事件。 災害に備えてどれほど綿密に準備をし、科学を発展させ、訪れる未来を予測して分厚いマニュアルを作成したとしても、現実はいつも、私たちが目を向けていない「別の場所」で牙を剥きます。そして、大切な命が失われた後に、人間はこう口にするしかありません。
「それは、想定外でした」と。
本当のところ、私たち人間は「明日のことなど何一つ分かっていない」のではないでしょうか。 旅行へ出かけるとき、それが自分の人生最後の旅になると考える人は一人もいません。誰もが、無事に家に帰ってくることを信じて疑わずにドアを開けます。しかし、無情にも帰らぬ人となってしまう現実が、この世界には確かに存在します。
人間の知恵も科学も、一つの命の明日を確約することなどできない。私たちはその圧倒的な無力さの中にいます。
複雑な世界の中で、ゴミを出し、娘を迎えに行く
この複雑で、時に残酷なほど不条理な世界の中で、「生きる」とは一体どういうことなのでしょうか。大きな悲しみや無力感に包まれる雨の夜ですが、私の目の前には、いつもと変わらない日常の時間が流れています。
これから、アルバイト先で待つ娘を迎えに行く準備をしなければなりません。そして、明日は土曜日です。朝になれば、いつものようにゴミ出しの作業が待っています。
- 命の儚さに直面しながら、娘を迎えに行くこと。
- 世界の不条理を嘆きながら、明日のゴミ出しをすること。
一見すると、この二つの世界はあまりにもかけ離れていて、ちぐはぐに思えるかもしれません。しかし、これこそが「人間が生きる」ということの真実の姿なのだと思います。
見えない明日を、ただ今日に委ねて
聖書には、人間の命のありのままの姿を映し出す、このような言葉があります。
「あなたがたは、明日のことなど分からないのです。あなたがたの命とは何でしょうか。あなたがたは、少しの間現れて、やがて消えていく霧にすぎません。」(ヤコブの手紙 4:14)
私たちは、明日を完全に予測し、コントロールすることはできません。 だからこそ、手の届かない明日を思い煩うことをやめ、今日、自分の目の前に託された「小さな日常」を淡々と、しかし心を込めて紡いでいくしかないのです。
悲劇の報せに心を痛め、祈りを捧げること。 同時に、家族を迎えに行き、明日のためにゴミをまとめること。 その「淡々とした営み」を決して手放さないことこそが、予期せぬ時代に対する私たちなりの、最も誠実な命の証しであり、抵抗です。
雨はまだ降り続いていますが、車のキーを手に取り、娘の待つ場所へ向かいます。 複雑な世界の中で、今日与えられたささやかな役割を果たせることに、静かな感謝を抱きながら。7月最後の一日、今日も、共に前進です。
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