階段に響く足音と命の制限時間:ただ「今」を愛し抜く祈り
時刻は2時半ごろ。日課となっているノアの散歩の時間がやってきました。 いつものように下で待っていると、階段の上にすっと姿が現れます。そして、一段一段、踏みしめるようにして、彼が自力で階段を降りてきました。
そのゆっくりとした、しかし確かな足運びを見つめながら、私の胸の奥に、静かで、しかし決して目を背けることのできない重い事実が真っ直ぐに降りてきました。
自力で降りてくるという「奇跡」
私たちが毎日繰り返している日常の風景。ノアが自分で歩き、階段を下り、散歩に出かけること。私たちはつい、明日も明後日も同じ風景が続くと思い込んでしまいます。
しかし、彼が自力で階段を降りてくるこの姿は、決して「当たり前のこと」ではありません。そして、永遠に続くことでもないのです。
いつか必ず、この階段を降りてくる彼の姿が消え去り、ただ私の記憶の中にだけとどまる時が訪れます。それは遠いおとぎ話でも、不確かな予測でもありません。少しの疑いもなく、必ずやってくる確かな未来です。
それが、生きとし生けるものが等しく所有している「制限時間」という絶対的な掟なのです。
制限時間が教えてくれるもの
私たちは「限りある時間」や「失われること」を前にすると、どうしても悲しみや恐れに心を支配されそうになります。できればその現実から目を背け、「ずっとこのままでいてほしい」と願ってしまいます。
しかし、聖書の詩編の記者は、神様に向かってこのように祈りました。 「わたしたちの生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」(詩編 90:12)
命に「制限時間」があるという厳粛な事実を正しく見つめることは、決して私たちを絶望に突き落とすためのものではありません。それはむしろ、残酷なまでに美しい「今」という時間の実輪郭を、はっきりと照らし出すための光なのです。
- 永遠ではないからこそ:
この毛並みの温もりも、階段を降りる爪の音も、永遠ではないからこそ、息を呑むほどに尊いのです。
- 当たり前ではないからこそ:
今日、自分の足で歩いてくれたその一歩一歩が、神様から手渡された奇跡のような賜物であることに気づかされます。
「今」を大事にして生きる
命の制限時間を知る者は、過去への後悔や未来への不安に心をすり減らすことをやめ、ただ一点、神様から与えられたこの「今」へと魂を集中させることができます。
いつか記憶の中だけにとどまる日が来るのなら。 その日が来るまで、私はこの目の前にある命の手触りを、余すところなく愛し抜き、慈しみ、共に歩むだけです。だからこそ、私たちは今を大事にして生きるのです。
自力で階段を降りてきた彼の頭を優しく撫で、今日の風の中へと一緒に歩き出します。このかけがえのない、ただ一度きりの「今日」という時間を胸に刻みながら。
今日も、共に前進です。
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