画面の向こうの便りを待ちながら——「顔と顔を合わせる」という真実のぬくもり
夕食の支度をすっかり終え、台所にふたたび静寂が戻った時間。 娘からの「帰るよ」という連絡を待つその静かな余白に、ふと思い立ってアニメーション『耳をすませば』の映像を流しました。
最初にこの作品に触れたのは、もう20年以上も前のことになります。 画面の中で躍動する中学生たちの姿を見つめながら、私の胸の奥に、ふーっと温かくも切ないような、言い知れぬ懐かしさが込み上げてきました。
便利さが省略してしまった「過程」
彼らの生きる世界には、スマートフォンもSNSも登場しません。 言葉を伝えるためには、相手のいる場所へ足を運び、不器用なまでに顔と顔を突き合わせて、自分の声で思いをぶつけ合うしかないのです。そこには、現代の私たちが当たり前のように頼っている「機械を通したやり取り」は一切ありません。(ワープロや図書カードが出て来るからです。)その絶対的な時代のギャップをまざまざと感じる中で、「あの頃が良かったな」と深く心が動かされるのは、一体なぜなのでしょうか。
今は間違いなく、便利な時代です。指先一つで、いつでも誰とでも繋がることができる。今まさに、私が娘からの連絡を手のひらの上で待つことができるのも、その便利さの恩恵に他なりません。
しかし、その「便利さ」が、私たちに無条件の「幸せ」をもたらしたかといえば、現実はそうではありません。むしろ、いつでも繋がれるという手軽さが、かえって人を深い孤独に追い込み、見えない相手との比較によって不幸を生み出しているケースのほうが、はるかに多くなってしまったように感じます。
顔と顔を合わせるという、命の交わり
私たちはなぜ、顔を合わせて話し合う彼らの姿に、これほどまでに惹かれるのか。 それは、私たちが本来、そのようにして他者と深く結びつくように造られた存在だからです。
聖書には、愛の究極の完成を示す言葉として、次のような表現が登場します。 「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。」(コリントの信徒への手紙一 13章12節)
文字だけのやり取りや、画面越しの繋がりでは、決して伝わらないものがあります。 ためらう時の声の震え、喜びでわずかに細められる目元、そして、同じ空間で沈黙を共有するときの、あの何とも言えない空気の温度。機械やシステムは、コミュニケーションの「過程」を極限まで省略して効率化してくれますが、人間関係において、その「省略された不便な過程」の中にこそ、愛や真実が宿っていたのです。
手のひらの機械から、目の前のあなたへ
時計の針を20年前に戻すことはできませんし、私たちがこの便利な道具を完全に手放す必要もありません。大切なのは、機械の便利さに私たちの「心」までをも明け渡してしまわないことです。
幸せを決めるのは、どれだけ早く連絡が取れるかではなく、目の前にいる人の顔を、どれだけしっかりと見つめられるかという意志にかかっています。
やがて手元の画面が光り、娘の帰りを知らせる便りが届くでしょう。 そして玄関の扉が開き、かけがえのない家族が目の前に現れたとき。私たちは手元の画面から目を離し、しっかりと顔と顔を合わせて、その日一日の労いを言葉にして交わすのです。
そこに生まれる体温を伴った交わりこそが、不透明な時代において、私たちが絶対に手放してはならない「本物の幸せ」の輪郭です。
明日も、共に前進です。

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