デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年8月15日土曜日

21年前の8月15日

 


流れゆく時の川に、感謝の舟を浮かべて:21年前の駅の夜明かしと、大年寺山の階段

今朝は少し体が重く感じられ、前日からの疲れが抜けきっていなかったため、いつものランニングは控えて、大年寺山公園への散歩に出かけました。

しかし、不思議なことが起こりました。歩き慣れた公園の急な階段を前にした時、ふと足に力が入り、なんと初めてその階段を一番上まで走り切ることができたのです。いつもは半分ほどで息が上がり、歩いてしまっていた道のりでした。思いがけない自分の「記録更新」に、心からの感謝が湧き上がりました。 その後、愛宕神社の階段を降りたあたりで、今度は無性に「走りたい」という衝動に駆られました。散歩の服装のままでしたが、そのまま駆け出し、良い汗をたっぷりと流しながら帰宅しました。重かったはずの体が、まるで内側から湧き出る喜びに背中を押されるように軽く感じられた、不思議な朝でした。

 


21年前の夏、途方のない慌ただしさと奇跡

今日、815日。 明日までの三日間、我が家は娘の誕生を祝う特別な日々を過ごしています。彼女が生まれた時のことは、どれだけ歳月が流れても決して忘れることができません。 21年前の815日、私は静岡から彼女の待つ桐生の病院へと向かいました。そして翌16日に無事に(妻と看護師たちは大変でしたが・・・)生まれた小さな命を腕に抱き、その温もりも冷めやらぬうちに、仕事のために再び静岡へととんぼ返りをしたのです。 ところがその道中、三島あたりで突然の地震に見舞われました。電車は運行中止となり、身動きが取れなくなった私は、そのまま駅で夜を明かすことになりました。始発電車でなんとか静岡へ戻り、仕事を終え、その後また桐生へ向かうという、文字通り息つく暇もない慌ただしい数日間でした。

駅の冷たい床で夜を明かしたあの時の疲労感も、無事に娘が生まれた安堵感も、すべては神様の深い恵みの内に守られた出来事として、今も私の心に鮮明に焼き付いています。

 


時の川を停めることはできないけれど

あれから、もう21年という歳月が過ぎ去りました。 時の流れは、残酷なほどに早いものです。今、娘と一緒に同じ屋根の下で過ごせる時間は少なくなってきており、これから先の半年間、彼女と共にいられるこの日常の一瞬一瞬を、私は何よりも大切にしたいと考えています。私たちは、流れていく「時」を停めることは絶対にできません。 どれほど愛おしい瞬間も、どれほどつらかった夜も、等しく過去へと押し流されていきます。しかし、私たちにできることが一つだけあります。 それは、「その流れていく時間の川に、どれだけの喜びと感謝を乗せて流せるか」ということです。

聖書に、このような言葉があります。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケの信徒への手紙一 5:16-18

これは、感情を押し殺して無理に笑いなさいという教えではありません。 日々湧き上がる不安や焦り、一時的な感情の波に惑わされることなく、「今、何がもっとも大事か」を静かに見極め、意図的に感謝を選び取るという、極めて能動的で力強い生き方の指針なのです。

 


今この瞬間を、精一杯に生きる

大年寺山の階段を、息を切らして走り上った今朝の自分。 21年前、地震で止まった駅で夜を明かしながら、生まれたばかりの娘を思っていた自分。 どちらの瞬間にも、神様が与えてくださった「命の息吹」が確かに流れています。

残された一緒の時間を惜しむのではなく、今日という日を、最高の喜びと感謝で満たすこと。感情の波に飲まれず、ただ真っ直ぐに一番大切なものを見つめて、この瞬間を生き抜くこと。

汗だくになった散歩着を脱ぎながら、私は静かに心を定まりました。今日という日も、神様が下さったかけがえのない恵みの1ページです。

今日も、共に前進です。

 

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