終わりのない円環と500キロの「安息」:自らの手で喜びを灯す生き方
「終わり」があるということは、それだけでひとつの救いであり、恵みです。
ひとつの礼拝を終えたあとの、あの深いため息のような安堵感。私と同じ職に身を置く者にとって、一週間のすべての歩み、思考、そして祈りは、日曜日のその時間のために注がれます。それが決して「日曜日だけの働き」ではないことを知る人は、外から見れば多くはないかもしれません。だからこそ、すべてを出し切った後の休息はひとしおです。
しかし、そのほっとしたのも束の間、すぐさま「次の礼拝」に向けた終わりのない準備が始まります。終わっては始まり、始まっては終わる。私たちの日常は、この円環の繰り返しです。
終わりのない世界の重みと、500キロの歩み
私たちの日常のサイクルとは別に、世界を見渡せば「終わりのない事柄」が重くのしかかっています。今なお続く戦争のように、いつ終わるのか、どこに向かっているのかさえ見えない暗闇は、人々の魂を深くすり減らしていきます。終わりが見えないことほど、絶望に近いものはありません。だからこそ、私にとって11月に予定している3週間の「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」への祈りの旅は、どうしてもなくてはならない、年1回だけの唯一の「安息」の時なのです。
- 距離にして500キロを自分の足で歩き抜くこと。
- 雨の日も風の日も、ただひたすらに道を進むこと。
肉体的には過酷を極めるはずのこの巡礼が、なぜ私にとって「安息」となるのでしょうか。それは、終わりのない日常のサイクルから物理的に離れ、ただ「歩く」という純粋でシンプルな行為の中に魂を解き放つことができるからです。肉体は激しく消費されても、心は深く澄み渡り、真の休息を得るのです。
喜びは、待つのではなく「創り出す」もの
終わりのない円環を生き抜くために、私たちはただ歯車のように日々をこなすだけではいけません。日々の合間に、自らの手で「楽しみ」と「喜び」を差し込んでいくことがどうしても必要です。11月の旅そのものだけでなく、旅先へ向かうまでの準備の過程、計画を練る時間からすでに、旅の喜びは始まっています。
「楽しい事と喜びの出来事を願うならば、自分で考えて造り上げること」
これは、生きるための真理です。喜びは、空から偶然降ってくるのを口を開けて待つものではありません。自らの意志で種をまき、水をやり、日常の隙間に意図的に創り出していくものです。
意志としての「喜び」
聖書には、このような言葉があります。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケの信徒への手紙一 5:16-18)
「喜んでいなさい」という言葉は、感情の強制ではありません。終わりのない日常や、時に残酷な世界の現実のただ中にあっても、なお「喜ぶことを選び取る」という強靭な意志への招きです。私たちが自分で考え、楽しみを準備し、喜びを創り出すとき、私たちは「創造主」である神の似姿として、自らの人生に光を灯しているのです。
次の日曜日への準備、そして11月の500キロの道程。
そのすべての過程を慈しみながら、今日も自分の手で小さな喜びを創り出していきましょう。
今日も、共に前進です。