デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年8月3日月曜日

MY WAY?

 


誰もいない階段と、譲らない二人:息苦しい世界に「恵みの余白」を創る

今朝は一人、大年寺山公園へと散歩に出かけました。 誰もいない静かな階段を一歩、また一歩と登り続ける時間。耳に届くのは、木の葉から滴り落ちる雨の音、かすかな鳥のさえずり、そして自分の規則正しい足音だけです。

世間のあらゆる騒音から物理的に切り離された、深い静寂のひととき。大自然の音と、自分自身の内なる心の音だけに静かに耳を澄ませて歩くこの時間は、私が私として生きるために、どうしても欠かせない大切な時間です。

しかし、その静寂の山を下り、広瀬川沿いへと出たとき、私は現代社会の「縮図」とも言えるような光景を目にすることになりました。

 

この二人です。

すれ違う道、譲らない心

川沿いの道には、何人かのランナーや散歩をする人々の姿がありました。 そこで、同じ道の同じ側を、一人は歩き、一人は走って、正面から向かってくる二人の年配の姿が目に入りました。歩いているのは女性、走ってくるのは男性です。

私は後ろからその様子をずっと見ていました。どう見ても、そのままでは真正面からぶつかります。誰かが少しだけ避けて、道の反対側を歩かなければならない状況でした。 先に状況に気づいたのは、歩いている女性の方でした。しかし彼女は、最初から「自分はこの道を誰にも譲らずに歩く」と固く決めているかのように、歩幅もコースも一切変えようとしません。一方の走っている男性は、周囲にまったく気づかずに自分の世界に入り込んで走ってきているようでした。

二人はぎりぎりまで譲らず、本当にぶつかりそうになったその一瞬、ようやく気がついた男性の方がサッと身を避けて走り去っていきました。幸いにも衝突は免れましたが、その息を呑むような数秒間に、私は深く考えさせられました。

 


疲弊した社会が奪っていく「余白」

誰かがほんの少し、一歩横にずれるだけで解決するはずのすれ違い。 しかし、それができない。この光景こそが、今の世の中の姿そのものではないかと思えてならなかったのです。他者への配慮に欠け、自分の歩く道だけを頑なに守ろうとする姿。それは決して、その人たちが生まれつき悪意を持っているからではないのでしょう。社会全体が疲れ果て、人々の心が深く疲弊しているからです。 心に「ゆとり」がなくなり、生きるための「余裕」が失われている時、人は「自分さえよければ、他はどうでもいい」という自己満足と自己防衛の小さな殻に閉じこもってしまいます。自分の正当性ばかりを主張し、他者に道を譲るという小さな恵みを与えることすらできなくなる。それが、今のこの息苦しい社会の現実です。

 


聖書に、このような言葉があります。 「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(フィリピの信徒への手紙 2:4

他者に道を譲るためには、自分の心の中に「他者を招き入れるための余白」がなければなりません。私たちが本当に恐れるべきは、人とぶつかることそのものよりも、心からその「余白」が完全に失われてしまうことなのです。

 


家族という「小さな聖域」から

それでも私たちは、この息苦しさを感じる社会の中で、今日を生きていかなければなりません。世の中のすべての人の心に、今すぐゆとりを取り戻させることは不可能に近いでしょう。だからこそ、私は心に決めます。 せめて「家族」という、私に与えられた最も身近な場所だけでも、余裕のある生き方を体現しようと。

  • 笑顔を絶やさず、お互いに道を譲り合うこと。
  • 疲れ果てた時には助け合い、支え合うこと。
  • 言葉を尽くして、深く理解し合うこと。

社会がどれほど配慮を欠き、自己中心的に回っていたとしても、私たちの家を、互いを思いやる「ゆとりのオアシス」にすることはできるはずです。今朝、大年寺山公園の階段で味わったあの深い静寂と安らぎを、今度は自分自身の生き方を通して、身近な人々の間に創り出していくのです。

一歩道を譲ることは、負けではありません。それは、心に愛の余白を持っている者だけができる、美しく力強い選択です。 外の世界がどれほど冷たくとも、私たちの内なる歩みは、今日も温かなゆとりと共にあります。

今日も、共に前進です。

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