罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(ローマ6:23)
人々がキリスト者をどのように思っているのかはそれほど重要なことではありません。大事なのは、彼らがイエス・キリストをどのように考えているのかであります。多くの人は本来の目的、見るべき方、聞くべき大切な話しよりは、それらを伝える人を見てイエス・キリストを、そして教会を判断することが多いのです。例えば、お店に自分がほしい物を買うために入りましたが、店員の不親切な態度を見て、買う物を買わず、出て行くのと同じです。大事なのは宝を包んでいる包装紙ではなく、中味であります。その中に入っている宝石であるのです。周りの態度や姿によって肝心なことを失わないようにすることが大事です。
中世ヨーロッパのある村の一人の神父さんが土曜日に家々を訪問しながら明日の夜は特別なミサを行いますので必ず出席するように言いました。日曜日のミサの時間になると村人が大勢会堂内に入りました。しかし会堂内は明かりもなく、真っ暗でした。人々は不思議に思いながら席に座りました。鐘が鳴り、ミサの時刻になると、神父さんが現れました。そして大きな壁にかかってあるキリストの十字架の聖画にろうそくをつけて照らしました。神父さんは何も言わず、最初に釘打たれたキリストの足を照らし、そして槍で刺された脇腹を、それから釘に打たれた右の手と左の手を照らしました。最後には茨の冠をかぶり血を流しているキリストの御顔を照らしました。その後、火を消して、ミサを終えました。それで十分だったからです。それ以上、付け加える言葉は必要なかったからです。説教壇ではキリストだけを宣べ伝えることです。なぜならイエス・キリストこそ真の希望であるからです。
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