2022年8月23日火曜日

我々は霊の法則によって生きる

 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(ヨハネの手紙一4:9-10

 


主の御名を賛美いたします。

時が巡りくれば、やはり変化するのが自然の法則であると思います。最近、朝は涼しくなりました。日中の暑さは続きますが、朝晩のひと時でも涼しくなるのはありがたい恵みであると思います。ノアちゃんも朝の涼しさを感じながら散歩に出かけています。今朝も2時半ごろ二人で広瀬川沿いを歩きながら涼しいひと時を味わいました。

 


 お手紙を読ませていただきました。少しでも元気になることを私たちは祈っています。

そして再びあの席で主を礼拝するお姿を見てみたいと考えています。教会の兄弟姉妹たちはそれぞれ苦しみと痛みを背負いながら信仰者として歩んでいます。私たちに対する神様の御心は苦しんでいるまま生きることではありません。何よりも元気で、健康な姿で神様を賛美し、証しながら、同時に主にある交わりの中で生きることを誰よりも願っておられる方です。

しかし神様は私たちの病気や痛みを和らげ、癒し、助けることが出来るにも関わらずその愛の御手を、癒しの御手をすぐに差し伸べてくれないのが不思議に思う訳です。中にはそういう神様を恨むキリスト者もいます。けれども神様の私たちに対する愛が冷めたわけではありません。神様の愛はどんな場合、どんなときにも変わらない真の愛です。不変の愛です。

 


その愛の目的は救いです。真の命、永遠の命を与えるための愛です。一時のこの世での人生を生かせるための愛ではなく、永遠に生きるための命を与えるための愛です。私たちは弱い存在です。いつも健康で、生活に何一つ不自由な事もなく、平和に暮らすと神様を忘れ、その愛に背き、救いも求めない存在です。それで聖書の中でイエス・キリストはその当時苦しんでいる人々全員を癒すことはしませんでした。イエス・キリストによって癒された人々はほんのわずかしかないのです。なぜならそれがイエス様がこの世に来られた目的ではないからです。少し健康で長生きすることよりは少し不便ではあるが永遠の命に与ることがはるかに祝福されたことになるからです。その意味で、聖書も語っていることですが今の試練と苦難は私たちを永遠の命から、その神様の愛から離れないようにつなぐロープであるのです。それを信じて生きることが重要であるのです。必ず良くなって共に礼拝に与る日がやって来ることを信じて祈り続けたいと思います。

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