キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。(エフェソ5:2)
And walk in
love, as Christ also hath loved us, and hath given himself for us an offering
and a sacrifice to God for a sweetsmelling savour.(EPHESIANS 5:2)
起床、祈り、掃除、散歩、ゴミ出し、仕事・・・・・・・二度寝・・・・起床、聖書、散髪、階段掃除、ノアちゃんの朝食、娘の見送り、聖書、仕事・・・・
こうして繰り返す日々はつまらないと感じる人々がいる。それで何か刺激を、新しいことを探し求める。
でもこうしたルーティンワークが重ねて人生を形づくり、自分を自分らしくさせるのである。日常の一つ一つのことが聖なる行為であると聖書は言う。特別な事よりは主と共に歩む日頃の働きが聖なる行為である。何か聖なる雰囲気を表す服や敬虔な場所にいるから聖なる者になるのではなく、どこにいても主と共に歩む場所、時が聖なるところ、聖なる時間になる。だから主を思いながら家族のために、人々のために洗い場に立った時もそこは聖なる場となるのだ。つまり、心が大事である。何を思い、誰のために行っているのかが重要である。
でもここで間違って考える人々がいる。自分のためにやるのはエゴイストで常に他人のために行うことが主の御心であると考えることだ。それは大間違いである。まず神様のために・・この順序は大事である。しかし自分のために美味しいものを食べ、自分のために趣味生活を行い、自分のために旅行に出かけることなどが悪いのではなく、その主な目的、主な関心事がいつも自己中心になる場合はエゴイストと言えるが、しかしいつもの関心事が神の義と神の国を考え、同時に隣人愛に関する神様の戒めを心に留めて機会があったら迷わず助けることが出来る人によっては自分のために行うことはかえって神様の栄光にもつながる大切な行為になるのだ。
主イエスに訪ねてきた金持ちの青年に対しても主イエスは全財産を売り払って貧しい人々のためにだけ施しなさいと言わなかったのである。その主な目的が何かを考えることが重要である。すべては神様の栄光のために行う。こういう確かな信仰があれば良いのだ。だから自分のためにも生きることは大事である。そしてすべては愛によって歩むべし。
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