主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。モーセは宿営に戻ったが、彼の従者である若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋から離れなかった。(出エジプト記33:11)
And the LORD
spake unto Moses face to face, as a man speaketh unto his friend. And he turned
again into the camp: but his servant Joshua, the son of Nun, a young man,
departed not out of the tabernacle.(EXODUS 33:11)
今朝(?)は自分にとっては少し肌寒い感じだが、ノアちゃんにとっては快適な気温であろう。二人とも気持ちよく散歩が出来て感謝。そして今日もランニングをクリア。今日も15キロ以上走った。その内、20キロのランニングを再び行うことになる。苦しみを味わうことも良し。マイナスに捉えずその苦しみ、きつさ、しんどさが自分を強くさせる薬であると思い、乗り越えることだ。ずっと苦しみが続けることはないからだ。上り坂があれば、下り坂がある。人生も同じである。苦しみと悩みがあれば楽しみと平和の時もある。
神様が顔と顔を合わせて語られた人はモーセ以外にはいない。それだけモーセと言う人物は特別な存在であった。しかし聖書に記されている彼の出生から死ぬまでの過程をよく見るとどうして彼が神様にそのような特別な存在だったのかが分からない。人を殺し、怒りっぽいで、妬み、文句も言い、すぐ諦めるし、神様にも反抗した人だったのになぜ神様はモーセをそのように扱ってくださったのか?繰り返して聖書を読んでみるとその理由が分かる。その理由とは聖書が答えている。
神はモーセに、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。(ローマの信徒への手紙9:15-16)
つまり、それは神様ご自身がそのように選んだからだ。人の態度や善さではなく、神様ご自身の一方的な恵みによってそのように扱い、彼は特別な存在として用いられたのである。
だから毎朝、私たちが祈るべきことは、求めるべきことは神様の慈しみ、恵みの内に生きられますようにとのことである。これはある意味、希望である。なぜならもしも人の態度や善さによって神様がそのように判断し、扱うならば自分は一生、それに近づけない者になるからだ。だから一方的な神様の恵みを褒め称えるべきである。今日も最後まで神様の恵みと慈しみの内に歩めますように祈るのである。
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