それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです。(コリント二12:10)
人は自分の弱さを隠し、強さを誇る傾向があります。しかし使徒パウロは反対に自分の強さを隠し、弱さを誇るというのです。なぜなら「私は弱いときにこそ強いからです。」と考えているからです。その弱さのために自分は主なる神様に頼ることが出来る、と言うのです。
人はすべてが整えられ、心配することも、悩むこともない場合、神様に頼らず自分の力で生きようとします。すべてに満足しているのにわざわざ神様の助けを求める人はいません。
けれどもそういう環境が本人にとって裁きとなり、結局、救われずに罪人して去って行くのです。イエス・キリストの救いを得られず死んでゆく人の行き先は地獄であると聖書は教えています。死んだら何もかもお終いだと言う人がいますが、決してお終いではないのです。神様の審判が待っているのです。それを聖書は繰り返して警告し、イエス・キリストによって救われる道を示しているのです。イエス・キリストによって真の命を得て生き、真の命をもったまま死ぬことです。真の命を持った人の死は葬りではありません。復活の準備のための時であるのです。この復活の信仰によって生きるのがキリスト者であります。だから苦しみの中でも、悲しみの中でも、痛みの中でも信仰と希望をもってそれらに耐えられ、前に進むことが出来るのです。人生最後までこの復活信仰によって生きることです。
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