"Journey
Through Life - The Wisdom of Living as a Pilgrim"
『人生という旅路 - 旅人としての生き方に見る知恵』
愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。(ペトロ一2:11)
人生を旅人として生きることは、聖書が繰り返し教える重要な真理です。しかし、現代を生きる私たちは、往々にしてこの視点を見失い、そこから様々な苦悩や思い煩いが生じてきます。真の旅人として生きることの意味を理解し、それを実践することで、私たちの人生は大きく変わり得るのです。
この真理を具体的に示す一つの経験があります。約100人の村で、週に一度、二人の教会員が住む上洞という町までノアちゃんと共に歩いて訪問する journey がありました。往復50キロという道のりで出会う人々との交わりは、まさに旅人としての生き方を体現するものでした。園バスの運転手、軽トラのおじいさん、畑仕事をするおばあさん―こうした出会いは、人と人とのつながりを生み出し、深めていきました。
しかし、注目すべきは、これらの出会いや関係性を大切にしながらも、そこに定住することはなかったという点です。なぜなら、私たちはあくまでも旅人であり、最終的な帰るべき場所が別にあるからです。この認識こそが、真の自由をもたらす鍵となります。
所有することに執着せず、必要な時に手放すことができる―これが旅人としての生き方の本質です。多くの人々は所有欲によって自由を失い、この世のものに縛られてしまいます。その結果、満足を知らず、感謝の心を失い、分かち合う喜びを味わえなくなります。対照的に、旅人は軽やかに歩み、小さな恵みにも感謝し、日々の出会いを喜びとして受け止めることができるのです。
このような生き方は、イエス・キリストによって与えられる真の自由と喜びに根ざしています。しかし、多くの人々は「今持っているものを手放すことができない」という理由で、この生き方を選択することを躊躇します。「もう少し現状を楽しんでから」と先送りにする傾向がありますが、私たちには予測できない死という現実が待ち受けています。
主イエスは『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』という言葉を通して、この世的な価値観の空しさを指摘されました。賢明な生き方とは、永遠の視点から今を生きることであり、それは旅人としての自覚を持って歩むことに他なりません。この選択は、最終的に各個人の決断に委ねられているのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿