痛む足と、心に灯る希望の光
サンティアゴ巡礼の道は、時に試練を与えます。ある日、48キロもの道のりを歩き終え、たどり着いた街のアルベルゲで、私は一人のイタリア人女性に出会いました。彼女の足は痛々しく腫れ上がり、「これ以上は歩けない」と、その声には絶望が滲んでいました。翌日にはバスでサラマンカへ戻り、病院で診察を受ける予定だという彼女は、痛む足でレストランへ行くことすら叶いません。
荷を解き、シャワーで汗を流した私は、街へ出て昼食をとりました。その帰り道、先ほどのレストランで、軽食にぴったりのタパスを二つ買い求め、アルベルゲへと戻りました。痛みと疲労で俯く彼女に差し出すと、その顔に一瞬、安堵の光が宿り、深く感謝してくれました。その夜は、私も静かに眠りにつきました。このアルベルゲは、私にとって二度目の滞在でした。
巡礼が結ぶ、海を越えた縁
翌朝、地下室で朝食をとっていると、自転車巡礼の男性と、そして彼女が降りてきました。食卓を囲む前に、私の部屋のドアには、昨日のお礼にと、一つのチョコレートと手書きのメモがそっと置かれていました。その心遣いに、じんわりと温かいものが込み上げます。
朝食を共にしながら、私たちは言葉を交わしました。驚いたことに、彼女は私より一つ年上で、3人の息子の末っ子さんが、なんと東京でトヨタ自動車に勤め、奥様と暮らしているというではありませんか。来年2月には、その息子さんを訪ねて日本へ来る予定だと聞き、遠く離れたスペインの地で、まるで故郷の縁に触れたような不思議な高揚感に包まれました。話は尽きることなく盛り上がり、笑顔がこぼれます。
ささやかな別れと、確かな友情
やがてバスの時間が迫り、アルベルゲの前で私たちは別れを告げようとしました。その時、同席していた男性からの提案で、三人で記念撮影。これもまた、巡礼の道がくれた、かけがえのない思い出です。
そして、彼女の痛む足で重い荷物を背負ってバス停まで行くのは無理があると感じた私は、彼女の荷物を持ち、共にバス停まで歩くことにしました。少し時間があったので、隣のカフェでコーヒーを飲みながら語り合い、バスの到着とともに、本当の別れが訪れました。「いつか、私の故郷イタリアのトリノにも来てね」。その言葉が、巡礼の道の終わりに温かく響きました。
その後、何回かWhatsApp(ヨーロッパでは主流のメッセージアプリです)で連絡を取り合いました。残念ながら、病院での診断は1ヶ月間の治療が必要というもので、彼女は翌日にはイタリアへ帰国することになったそうです。
共感の先にある、真の希望
巡礼の旅は、まさに人生の縮図です。様々な人に出会い、それぞれの物語に触れ、そして自らの経験と重なる出来事に直面します。私自身が経験した困難を乗り越えている人々と語り合うとき、その対話は深く、心を揺さぶります。なぜなら、そこには「共感」があるからです。同じ痛みを、同じ喜びを、同じ道を経験した者同士の共感は、何よりもリアルで、魂を揺さぶる力を持っています。
私たちキリスト者にとっても、この「共感」は非常に重要です。私たちの中心には、主イエス・キリストがおられます。私たち罪人のために十字架にかかって死んでくださった方を救い主として受け入れた者同士、共通の苦しみから解放された者同士の共感は、まさに格別です。そこから生まれるのは、単なる慰めではなく、揺るぎない「真の希望」です。永遠の命への希望、そしてその命に与った者たちが、神を愛し、隣人を自分のように愛するという、主が示してくださった同じ方向へと人生を進めていく使命への道です。
今日も私は、その使命を胸に、あと2時間後に始まる納骨式へと臨みます。
昨日、愛犬ノアもまた、S兄姉から美味しいおやつをいただきました。日常のささやかな恵みにも感謝です。
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