家族という名の謎に向き合うとき──年の瀬に思うこと
2025年最後の週末。 消防署から水消火器を借りて戻る道すがら、喧騒に包まれたショッピングモールの駐車場を横目に、ふと「家族」というテーマが心に浮かびました。
年の瀬は、多くの人が家族と再会する季節です。喜びと期待に満ちた再会もあれば、義務感やわだかまり、あるいは心の痛みを伴う再会もあるでしょう。「家族とは何か?」という問いは、私たちにとって最も身近でありながら、最も難解なテーマの一つかもしれません。
👨👩👧👦 家族──味方か、それとも敵か?
家族は、私たちが人生で最初に出会う「世界」です。 そこは「最も深い理解を得られる場所」であると同時に、「最も深い傷を負う場所」にもなり得ます。
- 運命共同体か、偶然か?
私たちは親を選べず、子もまた親を選べません。この「どうしようもなさ」を、神の摂理として受け入れられるかどうかが、家族を味方と見るか、敵と感じるかの分かれ道になるのかもしれません。
- 固まった性質の壁
家族という狭い空間で長い年月を共に過ごす中で、互いの性質は固まり、変わりにくくなります。近すぎる距離が、時に摩擦や誤解、妬みや怒りを生み出すこともあるでしょう。
⛪️ 「神の家族」になるために
教会では、信仰を共にする人々を「神の家族」と呼びます。けれど、そこにも人間的な弱さや葛藤が存在します。では、どうすれば本当の意味で「神の家族」として歩めるのでしょうか。
- 奇跡を待つ祈り
人の性質は、努力だけでは変えられないことがあります。変化を求めるとき、まずは「自分を変えてください。そして、相手に主の御手が触れますように」と祈ること。降伏するようなその祈りが、奇跡の始まりとなるのです。
- 「異邦人」としての視点
自分はどこにいても旅人であり、異邦人である──この視点は、家族関係にも大切です。家族を「自分の所有物」ではなく、「同じ天を目指す旅人」として尊重すること。適切な距離感が、思いやりの土台になります。
- 十字架という橋
知っていることと、実際に行うことの間には、深い溝があります。その溝を埋めるのは、私たちの正しさではなく、キリストの十字架です。自分もまた赦されるべき存在であると認めるとき、他者を赦す一歩が踏み出せるのです。
🕊️ 祝福を届ける者として
年末年始は、家族のことを深く思う季節です。 誰かの痛みを背負い、祈り、寄り添う人の姿は、言葉以上の力を持って周囲に届いていきます。
そのような姿こそが、凍てついた心を溶かす「祝福のしるし」なのかもしれません。もし、これから冷たい風の中を走る人がいるなら、その一歩一歩が、家族や仲間のための執り成しの祈りとなることでしょう。
走ること、祈ること、そして待つこと──それらすべてが、神の家族としての歩みの一部なのです。新しい年を迎えるこの時、
家族という謎に向き合いながら、 神の愛と平安が、すべての家庭に注がれますように。 そして私たち一人ひとりが、誰かにとっての「祝福の案内人」となれますように。
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