自由?

 


今日は朝から、4月の教会総会、そして5月の教区総会に向けた提出書類の作成に没頭していました。パソコンのキーを叩く音が、静かな部屋にリズムを刻みます。

ようやく全ての文書を書き終え、教会の月報「EL CAMINO(道)2月号」の印刷も完了しました。 刷り上がったばかりの紙の、かすかなインクの匂い。この一枚一枚が、明日には手紙と共に教会員の方々のもとへ届けられます。その一連の「務め」を終えたとき、私の心には小さな安堵の風が吹き抜けました。


 


「自由に決めていい」という冷たさ

一息ついた合間に、ある映画を観ました。 離婚を決めた両親が、一人息子にこう告げるシーンがあります。 「お父さんとお母さん、どっちと暮らすかはあなたが自由に決めていいのよ」その言葉を聴いたとき、胸の奥がチリりと痛みました。 「自由に決める」。一見すると、子どもの意志を尊重しているように聞こえます。けれど、まだ小さな背中の少年にとって、それはあまりに過酷な「重荷」ではないでしょうか。どちらを選んでも、もう片方を傷つけてしまう。その責任を子どもに背負わせることは、果たして本当の自由なのでしょうか。私たちの日常には、そんな「突き放された自由」が溢れている気がします。 「好きなようにしていい」という言葉の裏側に、時として無関心や、責任の放棄が隠れていることがある。選ぶための道標も、支える手もない中での自由は、時に暗闇の中に一人放り出されるような心細さを伴います。


 


選ぶ力を与える「温度」

映画を観終え、私は妻を送り出し、その帰りに夕食の買い出しへ向かいました。 今夜の献立は、シシャモと白菜のスープ。 そしてテスト期間中で机に向かっている娘のために、何か元気の出る美味しいものを作ってあげようと考えながら、スーパーの棚を歩きます。

ふと思いました。 娘が安心して勉強に集中できるのも、私がこうして教会の仕事に打ち込めるのも、そこには「帰る場所」があり、「待っている温もり」があるからではないか、と。

聖書は、私たちが自分勝手に迷い出る「自由」ではなく、愛という大きな枠組みの中に守られている「自由」について教えてくれます。 それは、**「あなたは独りではない。私が共にいるから、安心して歩みなさい」**という確信です。月報と一緒に送る手紙の一筆一筆。 娘のために選ぶ食材の鮮度。 妻を送り届ける車の温度。

それらの「ささやかな責任」の積み重ねこそが、人を真の意味で自由にします。愛されているという安心感があって初めて、人は自分の人生を力強く選んでいくことができるのです。


 


希望を持って、食卓を囲むあなたへ

私たちは、大きな決断に立ちすくむことがあります。 けれど、人生の答えは、案外今夜のスープの湯気の中に隠れているのかもしれません。

誰かのために美味しいものを作る。 誰かのために丁寧に手紙を書く。 そんな「誰かのための不自由」を喜んで引き受けるとき、私たちの心には、どんな映画の台詞よりも確かな「生きる力」が宿ります。今夜は白菜スープが、家族の心と体を温めてくれることでしょう。 明日届く月報が、誰かの孤独を癒す道標になることを願いながら。

今日も、精一杯に生きることです。

 

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