命という器を、慈しむリズム
🌅 朝の冷気と、足裏に響く鼓動
今日は大年寺階段トレーニングの日。 決めているわけではないのに、走った翌日は自然と階段と散歩へ向かってしまう。 頬を刺す冷たい空気、白く立ちのぼる吐息。
一歩ごとに路面を蹴るたび、足裏から伝わる振動が、眠っていた体と心をゆっくりと目覚めさせていきます。走ること、歩くこと、食べること、休むこと、祈ること、そして眠ること。
一見バラバラに見えるこれらの営みは、私の中で一本の細い糸のようにつながっています。 命の糸です。問題は、その糸がどこにつながっているか。 本来、命は命の源である主なる神様につながるべきもの。
けれど現実には、私たちの糸はしばしば「自分の意志」「欲」「お金」「名誉」「力」へと向かってしまいます。そこからは、真の命のエネルギーは流れてきません。 一時的な喜びや達成感はあっても、長く続くことはない。
なぜなら、それらは命を育む“本当の泉”ではないからです。
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネによる福音書14章6節)
🌿 「健康」という言葉の、その先にあるもの
私たちはつい、健康を「数値」や「体調」で測ってしまいがちです。 けれど、毎日350段の階段を上り、何十キロもの道を走り続ける中で、ふと問いが浮かびます。
「なぜ、私はこの体を動かそうとしているのだろう」
もし健康そのものが目的になってしまったら、 体が動かなくなったとき、私たちは生きる意味を見失ってしまうかもしれません。でも、視点を少し変えてみる。
この体、この呼吸、この鼓動は、すべて自分のもののようでいて、 実は神様から預かった “命という器” なのだと。そう思えた瞬間、日々のルーティンは義務ではなく、 与えられた命への「お礼」
に変わっていきます。
あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。(ヨハネによる福音書5章39~40節)
🔧 聖なるメンテナンスの時間
激しい走りのあと、30分以内にプロテインを飲み、バナナをかじる。 一時間後には、温かなご飯と納豆、卵をいただく。
それはただの栄養補給ではなく、 使い切った器に再び命を満たしていく、静かな儀式のようです。
そして夜の静けさの中で、あるいは朝の光の中で祈る。 祈りとは、神様との対話の中で魂の呼吸を整えること。 御声に耳を澄ませること。
だから瞑想とは違うのです。
体と心は、私たちが思う以上に深く響き合っています。
- 走ること:命の躍動を喜び、感謝すること
- 食べること:与えられた恵みを、感謝して受け取ること
- 休むこと:弱さを認め、すべてを委ねること
- 祈ること:命の源である神様へ心をつなぎ直すこと
この四つのリズムが重なり合うとき、 私たちは「健やかさ」という調和の中に身を置くことができるのだと思います。
🌤 今日を歩み出すあなたへ
もし今、心や体のバランスを崩し、足取りが重く感じられるなら、 どうか自分を責めないでください。器が少し欠けていても、ひびが入っていても、
そこからこそ、別の光が差し込むことがあります。
まずは深く一つ、呼吸をしてみてください。 そして今日、あなたが口にするもの、あなたの体が動くことを、 そっと慈しんでみてください。立派な走りでなくてもいい。
特別な食事でなくてもいい。
「生かされている」という温かな温度を、あなたの体で感じること。 それこそが、何よりの健康への近道です。あなたの命の器が、今日も穏やかな愛で満たされますように。
今日も、精一杯に生きることです。
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