命という器を、慈しむリズム

 


命という器を、慈しむリズム

🌅 朝の冷気と、足裏に響く鼓動

今日は大年寺階段トレーニングの日。 決めているわけではないのに、走った翌日は自然と階段と散歩へ向かってしまう。 頬を刺す冷たい空気、白く立ちのぼる吐息。 一歩ごとに路面を蹴るたび、足裏から伝わる振動が、眠っていた体と心をゆっくりと目覚めさせていきます。走ること、歩くこと、食べること、休むこと、祈ること、そして眠ること。 一見バラバラに見えるこれらの営みは、私の中で一本の細い糸のようにつながっています。 命の糸です。問題は、その糸がどこにつながっているか。 本来、命は命の源である主なる神様につながるべきもの。 けれど現実には、私たちの糸はしばしば「自分の意志」「欲」「お金」「名誉」「力」へと向かってしまいます。そこからは、真の命のエネルギーは流れてきません。 一時的な喜びや達成感はあっても、長く続くことはない。 なぜなら、それらは命を育む本当の泉ではないからです。

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネによる福音書146節)

 


🌿 「健康」という言葉の、その先にあるもの

私たちはつい、健康を「数値」や「体調」で測ってしまいがちです。 けれど、毎日350段の階段を上り、何十キロもの道を走り続ける中で、ふと問いが浮かびます。

「なぜ、私はこの体を動かそうとしているのだろう」

もし健康そのものが目的になってしまったら、 体が動かなくなったとき、私たちは生きる意味を見失ってしまうかもしれません。でも、視点を少し変えてみる。 この体、この呼吸、この鼓動は、すべて自分のもののようでいて、 実は神様から預かった 命という器 なのだと。そう思えた瞬間、日々のルーティンは義務ではなく、 与えられた命への「お礼」 に変わっていきます。

あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。(ヨハネによる福音書53940節)

 


🔧 聖なるメンテナンスの時間

激しい走りのあと、30分以内にプロテインを飲み、バナナをかじる。 一時間後には、温かなご飯と納豆、卵をいただく。 それはただの栄養補給ではなく、 使い切った器に再び命を満たしていく、静かな儀式のようです。

そして夜の静けさの中で、あるいは朝の光の中で祈る。 祈りとは、神様との対話の中で魂の呼吸を整えること。 御声に耳を澄ませること。 だから瞑想とは違うのです。

体と心は、私たちが思う以上に深く響き合っています。

  • 走ること:命の躍動を喜び、感謝すること
  • 食べること:与えられた恵みを、感謝して受け取ること
  • 休むこと:弱さを認め、すべてを委ねること
  • 祈ること:命の源である神様へ心をつなぎ直すこと

この四つのリズムが重なり合うとき、 私たちは「健やかさ」という調和の中に身を置くことができるのだと思います。

 


🌤 今日を歩み出すあなたへ

もし今、心や体のバランスを崩し、足取りが重く感じられるなら、 どうか自分を責めないでください。器が少し欠けていても、ひびが入っていても、 そこからこそ、別の光が差し込むことがあります。

まずは深く一つ、呼吸をしてみてください。 そして今日、あなたが口にするもの、あなたの体が動くことを、 そっと慈しんでみてください。立派な走りでなくてもいい。 特別な食事でなくてもいい。

「生かされている」という温かな温度を、あなたの体で感じること。 それこそが、何よりの健康への近道です。あなたの命の器が、今日も穏やかな愛で満たされますように。

今日も、精一杯に生きることです。

 

コメント