「独りで上る階段」と「共に担う重荷」―― 限界の先に差す光
老犬の背中を見つめながら
今、ノアとの散歩から帰ってきました。夜の冷気が心地よく、静かに一日の終わりを告げています。玄関先で、老犬となったノアが、一歩一歩確かめるようにして自力で階段を上っていく。その小さくなった背中を見つめながら、私は深い感謝を覚えていました。
「手がかからなくて良かった」ということではありません。私たちはつい、自力で自分のことができる状態こそが「健康」であり「感謝すべきこと」だと考えがちです。もちろん、それは一つの真実でしょう。けれど、階段を上るノアの姿を見ながら、私の心には別の、もっと深い問いが浮かんできました。
「自立」という美談の裏側にあるもの
私たちは「誰にも迷惑をかけずに生きる」ことを美徳としていないでしょうか。しかし、人生の本質的な感謝とは、実は「どんな時にも、どんな場合にも助け合って生きること」の中にあるのではないでしょうか。
年老いた親を世話し、体の不自由な家族を支え、言葉の通じないペットに寄り添う。それは、決して綺麗事ではありません。時には、出口のない暗闇の中にいるような絶望を感じ、死にたくなるほどの疲れに襲われることもあります。現実に、介護の重圧に耐えかねて、共に命を絶ってしまう悲劇がこの社会には溢れています。
それが、私たちの「人間としての限界」なのです。愛したいのに愛せない。支えたいのに、もう腕が上がらない。そんな自分自身の限界に突き当たった時、私たちはどこに希望を見出せば良いのでしょうか。
暗闇に差し込む、まばゆいほどの光
この「人間の限界」を突破する力は、私たちの外側からやってきます。それこそが、主イエス・キリストの十字架の死と、復活の出来事です。
十字架は、私たちの絶望や無力さ、すべての暗闇を引き受けた場所でした。そして復活は、その暗闇がもはや終わりではないことを証明した光です。「もう一歩も歩けない」と座り込む私たちの暗い世界に、主の復活の光は、まばゆいほど強力に差し込みます。
この光に照らされるとき、私たちの視点が変わります。自分の力で頑張ることをやめ、命の源である主にすべてを委ねる。そこから、再び立ち上がるための「生きる力」と、明日を信じる「希望」が湧き上がってくるのです。これこそが、信仰によって与えられる真の祝福に他なりません。
守られて生きる、その秘訣を
一日の無事を感謝してベッドに入る時、私は思います。ノアが階段を上れたことも、私が今日を走り抜けたことも、すべては大きな御手の中に守られていた結果なのだと。
今、重い荷物を一人で背負い、夜の長さに震えているあなたへ。その限界は、神様の力が現れる「始まりの場所」です。 明日は、この厳しい時代にあって、いかにして私たちは守られ、平安のうちに生き抜くことができるのか。その「秘訣」を皆さんと共に探っていきたいと思います。今夜は、ただその重荷を主の前に下ろして、安らかにお休みください。
おやすみなさい。
0 件のコメント:
コメントを投稿