「境界線」を溶かす愛 ―― ダイアナの悲劇と、キリストのグローバルな死
走る道はローカルでも、空はつながっている
今朝も仙台の街を走りながら、ふと考えました。私の足が踏みしめているのは長町の確かな地面であり、吸い込んでいるのは杜の都の空気です。しかし、私の手元にあるスマホは世界中のニュースを瞬時に運び、私の着ているウェアは海を越えた異国でデザインされたものです。私たちは今、「グローバル」という大きなうねりの中に生きています。政治も経済も文化も、もはや国境という壁は透き通ったガラスのように薄くなりました。けれど、私たちの「心」はどうでしょうか。あるいは、私たちが集う「教会」という場所はどうでしょうか。世界がこれほどまでに繋がっている中で、私たちは自分たちの居心地の良い「ローカル(地域)」という殻に閉じこもってはいないでしょうか。
ある「グローバルな死」のジョーク
先日、インターネットで「グローバリゼーション(世界化)の定義」についての、皮肉めいたジョークを見つけました。それによれば、グローバルの象徴とは「ダイアナ皇太子妃の死」だというのです。
彼女はイギリス人でありながら、フランスのパリで亡くなった。 乗っていたのはドイツ製のベンツで、運転手はベルギー人。 追いかけていたのはイタリア人のパパラッチで、彼らのバイクは日本製。
彼女を救おうとした医師はアメリカ人で、使った麻酔剤は南米産。 そして、世界中から届けられた手向けの花は、オランダ産だった。
このエピソードを、韓国製のモニターで見つめ、カナダ人が書いた記事を、台湾製のマウスでクリックして読む。これこそが現代の姿だという笑えない話です。
しかし、この物語を笑って済ませられない理由が、私たち日本の教会、特に地方の教会にはあります。世界がこれほど混じり合っているのに、私たちの教会は「いつものメンバー」だけで完結し、外部の、あるいは世界の教会の痛みに無関心な「超ローカル」な存在になってはいないでしょうか。
究極のグローバル・イベント ―― 十字架
もし、この歴史上で最も「グローバルな死」を挙げるとすれば、それはダイアナ妃の悲劇ではありません。それは、二千年前のゴルゴタの丘で起きた、主イエス・キリストの十字架の死です。
イエスの流した血は、ユダヤという一地方のためだけのものではありませんでした。それは人種、国籍、性別、そして時代さえも超えて、全世界を包み込む神の愛の表明でした。神の愛以上に、この世界を一つにする「グローバルな力」など存在しません。
現代のビジネスの世界では、「世界化に適応できなければ生き残れない」と必死に変化を求めています。ならば、主イエスの死を土台とする教会が、いつまでも「自分たちのための閉じた場所」であって良いはずがありません。
教会を自分たちの「固定資産」や「思い出の場所」にしてしまうこと。それこそが、教会の歩みを止める最大のブレーキなのです。
あなたの「心の国境」を拓くために
では、私たちは、誰にでも開かれた心を持っているでしょうか。「開かれた心」を持つということは、単に愛想良くすることではありません。それは、時には自分の慣れ親しんだ快適さを手放し、異質なものを受け入れるという**「犠牲」**を伴うものです。自分たちの教会のルール、自分たちの好みの音楽、自分たちの心地よい距離感。それらを「誰かのために」差し出し、変えていく痛み。その犠牲の先にしか、本当の意味で世界と繋がる道はありません。教会は、今ここにいる人々の所有物ではありません。それは、まだ見ぬ誰か、遠く離れた場所で苦しむ誰かと繋がるための「ステーション(発着場)」であるべきなのです。
境界線を越えていく勇気を
自分のローカルな殻から抜け出すのは、怖さを伴います。しかし、主イエスがそうであったように、私たちが自らの境界線を一歩踏み出し、世界を「一つの活動領域」として捉え直す時、そこには今まで見たこともないような豊かな恵みの景色が広がっています。
今日、あなたの隣にいる人、あるいは画面の向こう側にいる知らない誰か。その人を「異邦人」としてではなく、同じ主の愛に包まれた「家族」として受け入れる準備はできているでしょうか。完璧である必要はありません。まずは、自分の「心の窓」を少しだけ開けて、外の風を入れてみる。その小さなしぐさが、世界を変える一歩になります。
今日も、無事に守られて感謝。




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