過ぎ去る時の速さと、肉野菜炒めの温もり――区切りの日に刻む日常の足跡
祭壇の静寂から、街の喧騒へ
今朝、今年度最後となる東北学院大でのチャペル礼拝説教を務め終えました。後期は時間が取れないため、私の担当はいつもこの4月から6月までの季節です。
語るべき言葉を紡ぎ終え、静かな礼拝堂を後にしたとき、肩の荷がふっと下りるような安堵とともに、「無事に終わった」という深い感謝が胸の奥に広がりました。
そして帰り道、その足で向かったのは消防署です。3年に一度の消防設備点検報告の提出。神の御言葉を取り次ぐ霊的な時間から一転して、建物の安全を守るための極めて現実的な手続きへ。一見すると正反対のようなこの二つの出来事も、滞りなく無事に終えられたことに、ただ感謝が溢れます。
年齢とともに深まる、時間の手ざわり
ふと立ち止まれば、いよいよ2026年の歩みも半年が終わろうとしています。
「過ぎ去ったら早く感じ、来なかったら遅く感じる。」
振り返る過去は疾風のように駆け抜けたように思えるのに、見上げる未来は果てしなく遠い道のように感じられる。この時間に対する不思議な感覚は、年を重ねるごとにそのグラデーションを変え、人生の深みを教えてくれるものです。
私たちは皆、コントロールすることのできない「時」という大きな川の流れの中に身を置いています。その流れの速さに戸惑い、時に立ちすくみそうになることもあるでしょう。
錨となる、ささやかな営み
では、目まぐるしく過ぎていく時の中で、私たちが自分を見失わず、確かにそこに立ち続けるための錨となるものは何でしょうか。
それはきっと、手触りのある「日常」を反復することなのです。
- これから妻を八木山の坂道まで車で送る、その道中の時間。
- 帰りに立ち寄るお店で、家族の顔を思い浮かべながらする買い物。
- そして今夜の食卓に並ぶ、フライパンで力強く炒められた肉野菜炒め。
チャペルの説教壇に立ち真理を語ることも、消防署の窓口へ書類を提出することも、大切な人のために車を走らせ、台所で肉と野菜を炒めることも――神様のまなざしの前では、すべて等しく尊い「今日を生きる使命」です。
特別な務めを果たし終えた区切りの日だからこそ、こうした飾らない日常の温もりが、冷えた手を温めるように心に沁み渡ります。
目の前にある今日を、最後まで
半年という一つの折り返し地点。過ぎ去った時間の速さを慈しみ、まだ見ぬ未来へ静かな希望を灯しながら。
まずはこの後、妻を送る車のハンドルを握り、夕食の準備へと向かいます。与えられた今日という一日を、夕暮れまで丁寧に、そして力強く生き抜いていきたいと思います。
今日も、共に前進です。
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