雨上がりの自由と、一週間を手放す夜 ── 土曜日という安息の形
◆ 時計を外す朝、縛られない足音
降り続いていた雨が、ようやく上がりました。 雨上がりのしっとりとした空気を胸いっぱいに吸い込みながら、ランニングへと出かけます。
土曜日。それは、時間を気にせずに気軽く走れる特別な日です。 平日の朝は、娘を駅まで送るという大切な役割があるため、心の中のどこかで常に時間を意識しています(もちろん、走る時間は十分に確保してはいるのですが)。しかし、土曜日の朝にはその「時間の制限」という見えない縛りがありません。
ただ風を感じ、ただ自分の呼吸に耳を澄ませて走る。 どうであれ、土曜日という日は、私たちに「癒し」と「余裕」を与えてくれる日に違いありません。
◆ 魂の安息と、日常の「ゴミ出し」
世間の人々は、土曜日をさまざまな眼差しで見つめています。 待ちに待った週末だと歓喜する人もいれば、土曜日なのに仕事だとため息をつく人もいます。あるいは、一週間の体の疲れを癒すための日だと考える人もいるでしょう。
しかし本来、土曜日とは体の疲れだけでなく、心の疲れや、見えない魂の傷をも癒すための日です。ユダヤ教の伝統において、土曜日は「安息日(シャバット)」とされています。正確には「金曜日の日没から土曜日の日没まで」が安息日です。太陽が沈み、一日が終わるその時から、心身のすべての労働と煩わしさを手放し、ただ神の前に静まる魂の休息日なのです。では、いま現在の私にとって土曜日とは何か。
それは、「今週最後のゴミ出しの日」です。かつては崇高な神学的な意味を見出していた土曜日が、いつの間にか「これで一週間が終わった」と感じる生活の区切りの日、ゴミ出しの日へと変わっていました。
しかし、私は「これも別に良い」と静かに受け止めています。一週間の生活のなかで溜まった不要なものを外へ出し、空間を綺麗に整えること。それは、心の中に溜まった澱を手放し、明日からの新しい一週間のために魂の余白を作る、立派な「安息の儀式」だからです。
◆ 23時半の踊り場、交差する家族の軌跡
昨夜の23時半ごろのことです。 ノアとの夜の散歩を終え、その「今週最後のゴミ出し」に行って戻ってくると、ちょうど娘が帰宅したところでした。
家の階段の踊り場で、ノアは不思議そうな顔をしていました。 「なんで二人が一緒にいるの?」と言わんばかりの表情です。
娘は、友だちとピザ専門店に行ってきたと話し、楽しそうにスマートフォンの画面で美味しそうなピザの写真を見せてくれました。 私はその楽しい報告に耳を傾け、そして足元では、ノアが二人の会話をじっと聞きながら、「自分も食べたい」という素直な欲望のままに、何度も何度もベロを出していました。
- 夜の静寂の中に響く、家族の笑い声
- ピザの写真を覗き込む穏やかな時間
- 言葉を持たない愛犬の、愛らしい仕草
特別な出来事など何も起きていない、ただの日常の一コマです。しかし、このささやかな踊り場でのひとときこそが、一週間の終わりに神様がそっと与えてくださった「魂の安息」そのものでした。
◆ 理由のいらない恵み
私たちは時々、「〇〇だから素晴らしい」と理由を探して生きようとします。 しかし、神様が用意してくださった安息の日は、ただそこにあるだけで私たちを包み込んでくれます。「土曜日は、土曜日だから良いのです。」
そこに理由はいりません。ただ生きていること、ただ家族が揃うこと、ただ雨上がりの道を走れること。その何気ない事実を深く味わい、心を満たすこと。あなたの今日という日が、魂の荷物を下ろし、深い癒しと余裕に満たされる一日となりますように。
今日も、共に前進です。
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