流れ落ちる汗と揺るがぬ基準――不条理な世界で「今日」を生き抜く
夜の静寂がまだ深く街を覆う午前1時。愛犬ノアとの散歩を済ませ、少し仕事をしてから二度寝の床につきました。再び目を覚ましたのは午前3時半。身支度を整え、午前4時ごろ、まだ薄暗い街へとランニングに走り出しました。
今日は仙台の市内を駆け抜け、最後は広瀬川沿いを辿って家路につく、27キロの道のり。全身からとめどなく吹き出す汗を感じながら、私はふと、この汗と一緒に心の奥底に沈殿している不純物までもが、溶けて流れてくれればいいのにと願っていました。
移ろいゆく世界と、「良い人」という幻
私たちは日々、誰かの期待に応えようと、無意識のうちに「良い人」であろうとしてしまいます。しかし、走りながら私の心にあったのは、「この世が認める『良い人』になることは目指さない」という静かな決意でした。
なぜなら、この世界が求める基準は、空の天気のようにころころと変わるからです。 昨日はもてはやし、褒め称えたかと思えば、今日は掌を返して文句を言う。人々の判断基準は、その日の気分や状況次第でいとも簡単に揺れ動きます。そんな移ろいゆくものに合わせてすべての人にとっての「良い人」になろうとすれば、私たちは自分自身の心をすり減らし、見失ってしまうでしょう。この世界は、もともと不条理にできているのです。
それがこの世の真の姿であり、正体です。その仕組みがわかっていれば、理不尽な目に遭っても文句を言う気にはなりません。最初から「そういうものだ」と知っていれば、過度な期待をして裏切られ、深く傷つくことから自分を守ることができます。
たったひとつの、変わらない基準
世間の評価という砂上の楼閣ではなく、私が目指しているのは「主なる神様が喜ばれる人になること」、ただそれだけです。
人間の気分はうつろいますが、神様の基準はいつも同じです。決して変わることはありません。 コロコロと変わる世間の顔色をうかがうよりも、永遠に変わらないただひとつの基準に合わせて生きるほうが、人生ははるかにたやすく、自由になります。
もちろん、不条理だと分かった上で、私たちもまたこの世の一員として生きていくのです。 私は、この巨大な世界そのものを変えようなどとは想像もしていません。私が心に留めているのは、自分の手が届き、影響が及ぶ小さな範囲のことだけです。少しでも報われる群れの中での変化、そこにある平和と喜び、共に生きる共同体。その小さな居場所を慈しみながら生きれば、それで十分なのです。
選んだ道を、喜びをもって
27キロを走り終えた後は、金曜日の朝の慌ただしい日常が待っていました。 妻は早朝のバイトなのでシャワーの後、洗濯機を回し、娘を駅まで送り、掃除をこなしながら過ごす時間。傍から見ればただの忙しい朝かもしれませんが、これもまた、他ならぬ自分自身が選び取った道です。だからこそ、義務感からではなく、深い感謝と喜びをもって、目の前の一つの家事に向き合うことができます。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
(マタイによる福音書 6章34節)
明日はどうなるのか。 それは、明日に任せます。私という存在は、過去でも未来でもなく、「今日生きること」だけが許されている存在なのです。
複雑な世界の中で、変わらない光を見上げること。 そして、与えられた今日という一日だけに集中し、目の前の命を精一杯に生き切ること。
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