水面に射し込む光と「おまけの人生」:今日という日を余さず生きる
7月もいよいよ最後の一日を迎えました。 今朝は大年寺山公園へと足を運び、ゆっくりと散歩の時間を持ちました。そこにあったのは、ただひたすらに静かで、深く平和な朝の空気です。静寂に包まれた川面に浮かぶハクチョウ。
水面を真っ直ぐに横切っていく、透明な朝の光。 すれ違う散歩の人々や、息を弾ませて駆け抜けていくランナーたち。
その一つひとつの風景が、ただそこにある命を全うしようとする「生きるための姿」として、私の胸に静かに迫ってきました。
一つの区切りと、すれ違う背中
時計の針が6時15分を指し、帰宅しようとした直前のことです。早朝のパートへと出かけていく妻と偶然すれ違いました。毎週金曜と土曜の早朝に続けてきた彼女のパートタイムの仕事は、今日が最後となります。その背中を見送りながら、心の中で「本当にお疲れさまでした」と深く労いの言葉をかけました。妻はこの仕事の後、健康診断へと向かいます。そして、それに伴って私が担ってきた「朝の洗濯の仕事」も、一応今日で一区切りとなります。もちろん、また必要になればその時に担えばいい。そんな柔軟な気持ちで、一つの小さな季節が終わるのを感じていました。
執着を手放した先にある「絶対的な安心」
妻が健康診断に向かうという事実から、ふと、自分自身のことに思いを巡らせました。 思えば私はもう、10年以上も健康診断というものを受けずに生きています。
- もしもこの先、重い病気が見つかったらどうするのか。
- 「もっと早く検査を受けていれば治ったのに」という、ドラマのような後悔に苛まれることはないか。
人々はそう考えるでしょう。でも自分にはまったく関係のないことです。何があっても悔いはない、これで良い、と。考えるからです。何かがあれば、その時にただ対応すればいい。無責任に聞こえるかもしれませんが、これは命に対する投げやりな態度ではありません。むしろ、これまでの人生に対する深い感謝から来る「手放し」の境地なのです。
すでに60年という歳月を生かされてきました。私にとって、それはすでに「これで十分」と心から言えるほどの豊かな時間でした。だからこそ、今ここから先の時間はすべて、神様から与えられた「おまけの人生」なのだと静かに受け止めています。
感謝とともに、今日を生き切る
自分の命の長さを自分の手でコントロールしようとする執着を手放した時、心の中にあるのは「まったく問題なし、心配もなし」という、凪いだ水面のような平安だけです。
聖書にこのような言葉があります。 「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマの信徒への手紙 14:8)
命がいつまで続くのか、明日何が起きるのか。それは私たちが思い煩う領域ではなく、天の御手の中に完全に委ねられているものです。だからこそ、「おまけ」として惜しみなく与えられた今日という一日を、決して粗末にはしません。
溢れる感謝とともに、主のために、愛する家族のために、そして教会のために、ただ目の前の一瞬一瞬を精一杯に生きる。それだけで、人生は十分に美しく、完成されているのだと思います。
静かな光に包まれたこの7月の終わりに、その恵みを深く噛み締めています。
今日も、共に前進です。
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