終わりのない舞台と、役者を降りる許し:車中の語らいから見つめる家族の形
夜の帳が下りた街を走り抜け、無事に娘を車に乗せて家路につきました。 心地よいエンジン音だけが響く車内は、日常の慌ただしさから切り離され、親子の何気ない対話が自然と深まる温かい空間です。
あんかけ焼きそばと、明日への準備
今日の帰り道も、私たちは車の中でいろいろなことを話し合いました。 今度のワールドカップ、フランスとスペイン戦の行方についての予想。そして、今日の賄いで出たという「あんかけ焼きそば」をはじめ、いろいろと美味しいものを食べたこと。そんな他愛のない、しかし確かな生活の手触りがある話題に、心がほぐれていきます。
話の中で、娘が「明日は実習でグループホームに行く予定だ」と教えてくれました。 そこでは大半が認知症の方々であるため、「同じことを20回は繰り返し言うことになる」と事前に教えられたそうです。それに対する彼女の決意は、とても印象的なものでした。
「役者になったつもりで対応する」
その横顔を見ながら、私はふと「彼女ならば、きっとそれが出来る人かもしれない」と頼もしく思うひと時を過ごしました。相手の不安に寄り添い、何度でも同じ言葉を優しく返す。それは、プロフェッショナルとしての見事な「配役」です。
家族は、役者になれない
しかし、その娘の言葉を心の中で反芻しながら、私の思索はもう一つの重く切実な現実へと向かっていきました。
それは、実際に認知症の親を抱え、日々介護に向き合っている「家族」の姿です。 実のところ、家族は決して役者にはなれません。なぜなら、彼らの現実は「毎日」だからです。
- 幕が下りない舞台:
役者がその役を演じきることができるのは、そこに必ず「舞台の終わり」があるからです。出番が終われば幕が下り、自分の素顔に戻って深く息を吸い込む「息抜き」の時間があるからこそ、また次の舞台に立つことができます。
- 逃げ場のない日常:
しかし、家族にはその幕がありません。毎日、一年365日、休むことなく「介護する家族」という役を演じ続けられる人間など、どこにもいないのです。
それは数年、時には数十年という途方もない長さで、同じ空間の中で生活を共にすることです。どれほど相手を愛していても、息を継ぐ場所のない現実は、やがて耐えがたいほどの重圧となって家族の心をすり減らしていきます。
距離を置くという、もう一つの愛の形
私たちは時に、「家族なのだから、最後まで自分の手で抱え込まなければならない」という強い責任感という名の鎖に、自分自身を縛り付けてしまいます。しかし、私たちが限界を持った脆い存在であることは、決して恥ずべきことではありません。
以前、別の記事でも取り上げたことですが、終わりのない現実の中で私たちが生き抜くためには、守るべき大切な知恵があります。
- 一人で抱え込まないこと(現実には非常に難しいことですが、だからこそ声を上げる必要があります)
- 必ず、周りの助け(専門家や制度)を得ること
- そして、意識的に「距離を置く」こと
「距離を置くこと」は、決して見捨てることでも、愛が冷めたことでもありません。それは、あなたがあなた自身の心を守り、再び相手に優しく接するための「息抜きの場所(舞台裏)」を確保するという、とても神聖で必要な行為なのです。
神様は、私たちが無限の力を持つ神のように振る舞うことを求めてはおられません。限界のある私たちが、互いに弱さを認め合い、助けを求め合うその手の中にこそ、本当の愛が宿るように人間を造られました。もし今、終わりのない日常の舞台で限界を感じている方がいるならば、どうか「役者を降りる勇気」を持ってください。他者の手を借り、少し離れた場所から深く息を吸い込んでいいのです。
明日は、ランニングを休んで休息日にする予定ですが・・・・
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