立ち止まる恵みと、動き出す身体:空白が教えてくれること
7月の空は、厚い雲がゆっくりと流れ、時折降り出す雨がアスファルトを濡らす季節です。 湿気を含んだ重たい空気が肌にまとわりつき、走り出すとすぐに汗が滲み、
身体の奥に静かに疲労が積み重なっているのを感じる日々です。
長く続けてきたロングランの疲れは、 一気に押し寄せるのではなく、 雨に濡れた地面のように、じわりじわりと深いところに染み込んでいきます。
それでも、曇り空の下を走る時間は、 自分の内側と静かに向き合うひとときでもあります。
湿った風が頬をかすめるたび、 「今日もここに立っている」という確かな感覚が戻ってきます。 雨の季節は、心も身体も重くなりがちですが、
その重さの中にこそ、歩みを続けるための静かな力が宿っているのかもしれません。
「何もしない」という豊かな選択
現在、娘が三日間の留守にしており、家の中にはいつもとは違う、ゆったりとした静寂が漂っています。普段であれば、スーパーへ買い出しに向かい、キッチンに立って日々の食事を整えるのが私の当たり前の風景です。しかし、この三日間は「買い物なし」「料理なし」。妻と二人、ただ流れる時間に身を任せ、ゆっくりとした時を過ごしています。
- 予定を空白にするという贅沢
- 日常の役割から一時的に降りる安らぎ
日々のロングランによる疲労を癒やすためでもありますが、あえて「何もしない」という時間を引き受けることも、人生においては非常に素晴らしいことです。明日は、妻と二人で外でランチをする予定です。めったに訪れないこの静かで特別な機会を、心から大切に味わいたいと思います。
安息の喜びと、抗えない命の律動
聖書には「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(コヘレトの言葉
3:1)と記されています。 走り続ける時があれば、立ち止まる時がある。日常の義務を果たす時があれば、ただ愛する人と穏やかな食卓を囲む時がある。私たちが今経験しているこの「何もしない時間」は、単なる停滞ではなく、すり減った魂に深く呼吸をさせるための、神聖な「安息」なのだと気づかされます。
しかし、人間の身体と心とは不思議なものです。 これほどまでに休息の甘美さを味わい、静けさを享受していながらも、私の中のもう一つの本能が、明日も確実にランニングシューズの靴紐を結ばせるのです。
明日のランニングを終えれば、7月の走行距離は「500キロ」の完走を迎えます。 「夏場は無理をしない」。そう自分に言い聞かせていたはずなのに、いざ朝を迎え、道を見つめると、身体が勝手に前へと動いてしまう。仕方ないなと苦笑しつつも、この理屈を超えて突き動かされる衝動は、確かに生きているという命の躍動そのものです。
静と動の交差点から
何もしない安息の喜びに浸りながら、それでも風を切って走り出さずにはいられない。 私たちの魂の歩みも、きっと同じなのかもしれません。深い休息のなかで愛と平安を満たし、その満ち溢れた力によって、再び自らの道を走り出すのです。
立ち止まることも、ひたむきに走ることも、どちらも等しく尊い恵みです。 明日は妻との穏やかなランチの時間を慈しみ、そして、500キロの節目となる道をしっかりとこの脚で踏みしめてきます。
今日も、共に前進です。


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