終わりの次に来るもの:時の「あわい」を生きる恵み
連日、他の地域からは猛暑日で大変だという痛ましい声が聞こえてきますが、私たちのいるこの場所は、まだ涼しい風が吹いています。時折、空から恵みの雨も降り注ぎます。まだ梅雨明けをしていないからなのでしょう、肌に触れる空気には微かな湿り気と柔らかさが残っています。日常の風景にも、小さな変化がありました。
駐車場のすぐ隣にあった家の取り壊し工事。この何時間も鼓膜を揺らし続けていた重機や解体の騒音が、今日でおおむね終わりを迎えたようです。ふっと訪れた静寂が、空間に広がりと安らぎをもたらしてくれました。これから、バスに乗ってこちらへ向かっている娘を、駅まで迎えに行きます。
その前に、今日は、久しぶりに二人で外に出てランチをいただきました。 年に何度あるか分からない、ほんのひとときの時間。 その静かな喜びが、心の奥にそっと温かさを残してくれました。
自分の「定規」と、本当の味わい
足を運んだのは、古民家を改装した趣のある蕎麦屋。そこで山形のそばをいただきました。しかし、その味は正直なところ「まあまあ」という印象でした。おそらく、もう一度ここへ足を運びたいとは初めから思わないでしょう。私がただ味に対してうるさい人間だからなのかもしれませんし、あるいは、私がまだ「本物のそばの味」というものを根本的に知らないだけなのかもしれません。
- 味覚も、価値観も、人それぞれに好みが分かれるもの。
- あくまで「自分の場合はそう感じた」という、ただ一つの事実に過ぎない。
自分の舌の感覚だけが絶対の正解ではないと認めること。それは、自分の限られた経験という「小さな定規」で世界を測りきることの限界を知る、静かで謙虚な気づきでもありました。
終わりと始まりの「間」を生きる
カレンダーに目をやると、7月もいよいよ、明日の1日を残すのみとなりました。明日という日が過ぎ去れば、この月は「最後」を迎えます。
しかし、ひとつの「最後」が通り過ぎたその直後には、必ず次の月の「最初の1日」がやって来ます。私たちの人生は、この終わりと始まりの絶え間ない繰り返しによって織りなされています。そして私たちは皆、過ぎ去っていくものと、新しくやって来るものとの「あわい」を呼吸して生きているのです。
聖書の哀歌には、次のような力強い慰めの言葉が記されています。 「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。」(哀歌 3:22-23)
騒々しい工事が終われば、静かな時間が戻ってくるように。 ひとつの月が終わりを告げれば、新しい月がまた真っ白な1ページを開いてくれるように。 私たちの日常は単なる無機質な繰り返しではなく、「朝ごとに新たになる」神様の慈しみと憐れみによって、何度も新しくリセットされ、前へと押し出されているのです。
自分の不完全な価値観や好みを抱えたままでいい。 最後と最初が交差するこの時の「あわい」に立ち、新しく与えられる今日という時間を、ただ誠実に味わい尽くせばよいのだと思います。娘を待つ駅までの短い道のりを、静かな喜びと共に歩いてきます。
今日も、共に前進です。
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