恵みの雨に洗われる朝――満ちゆく川と、日常という名の祝祭
午前5時。窓の外で激しく降る大雨を目にしたとき、躊躇するどころか、不思議と「こういう時こそ走らなければ」という強い衝動が胸の奥から湧き上がってきました。
雨粒を全身に浴びながら駆け出す、久々のシャワーラン。夏の厳しい暑さを知るランナーにとって、この時期の雨は決して障害ではなく、むしろ恵みです。火照る身体を冷まし、息吹を与えてくれるこの雨を、私はどこかで待ち望んでいたのかもしれません。
雨の中で汗を流す人々と、満ちていく命
早朝5時にスタートして6時前に仙台駅周辺を通り抜けると、そこには思いがけない熱気がありました。今日と明日に控えた祭りのために、雨の中でテントの設営作業に汗を流す多くの人々の姿。誰かが楽しむ祝祭の裏側には、こうして人知れず働き、準備をしてくれる人々の沈黙の労苦があります。(もちろん彼らは仕事で行うことですが、それでもありがたい。)その風景を目に焼き付けながら、楽天球場の方へ。
激しい雨と、自分自身の内側から溢れる汗とが混じり合い、まさに全身でシャワーを浴びているような心地よさに包まれます。自分の力で前に進む汗の熱と、天から降り注ぐ雨の冷たさが交差する中を走り続けました。
宮城刑務所の前を通り過ぎ、広瀬橋を渡って帰宅するまでの約20キロ強。これで今週の走行距離は123キロに達しました。真夏の道のりとしては、悪くない足跡です。 橋の上から見下ろした川は、昨日の渇きが嘘のように豊かな水かさを増していました。その満ちゆく流れを見て、川の生き物たちもきっと水底で喜んでいるだろうと、深く安堵する自分がいました。
天からのシャワーがもたらすもの
私たちはしばしば、人生に降り注ぐ「雨」を予期せぬトラブルや困難と捉え、傘を差して逃げ込もうとします。しかし、自らその雨の中に飛び込んでみると、それが乾ききった大地を潤し、私たちの魂の澱を洗い流す「恵みのシャワー」であることに気づかされます。
「神は、御自分の雲に水を満たし、その雲から稲妻を放たれる。雲は神の導きによって巡り、神が命じられることをすべて、人の住む地の上で成し遂げる。」
(ヨブ記 37:11-12)
神様の降らせる雨は、祭りの準備に汗を流す人々の肩にも、ひたすら道を駆けるランナーにも、そして川底で息を潜める小さな命にも、等しく、豊かに注がれます。
人間の力では決して生み出せないその圧倒的な恩寵が、私たちの流した汗ごと包み込み、渇いた心を再び満たして、「また生きていける」という静かな喜びを与えてくれるのです。
明日は丑の日。
少し仕事を片付けたら、家族のためにうなぎを買いに出かけようと思っています。天から与えられた恵みを味わい、 大切な人たちと食卓を囲む―― それは、私たちに与えられたささやかで尊い「日常という名の祝祭」です。
そして、心を整えながら明日の礼拝に備える。 そんな一日の流れは、まるで神様がそっと描いてくださった “人生のドラマの一コマ”のようにも思えます。
うなぎの香りに満たされた食卓も、 静かに祈りへ向かう時間も、 どちらも私たちの心を洗い流し、新しい力を与えてくれる恵みです。
洗い流された新しい心で。 今日も、共に前進です。
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