夏空と静寂の向こう側で、それぞれの命が「今日」を生きる
静寂な朝、呼吸を確かめる時間
午前4時過ぎ。 街がまだ深い眠りの底にある静けさの中、大年寺山公園へと歩みを進めました。風はなく、肌を包む空気は少し厚みを増していましたが、暑苦しさはありません。
夏の気配をそっと肩に羽織るような、穏やかな温度でした。
誰もいない大年寺の階段。 その道のりを、半分は走り、半分は歩いて上る。 自分の足音と呼吸だけが響くその時間は、今日という新しい一日を迎えるための、静かな儀式のようでもあります。約1時間の道のりのなかで、私の目に飛び込んできたのは、力強く生きる「命」の姿でした。
- 広瀬川のハクチョウ:水草をはみ、今日を生きるための確かな備えをしている。
- 川沿いの夏草:いつの間にか背丈を超え、天へ向かって真っすぐに伸びている。
- 見上げる空:これから始まる強い日差しを予感させる、まぎれもない夏空が広がっている。
水曜日の風景、繰り返される営み
今日は水曜日。 この街の一般ごみ収集日です。
それは同時に、街のギャングたち——カラスたちのパーティーの日でもあります。
早朝から、黒い影があちこちに見えました。 散らかされるゴミ。そして、それを黙々と片付ける人。毎週のように繰り返されるこの光景に、徒労感を覚える人もいるかもしれません。
しかし、街の人々はそれほど怒るわけでもなく、「いつもの風景」として受け止めているように見えます。
そこにあるのは、諦めではなく、 「人間もカラスも、ただ今日を生きているだけ」という事実の受容なのかもしれません。
普遍的な真理:空の鳥も、私たちも
カラスは生きるための糧を求め、 人間は生活の秩序を守るために片付ける。
広瀬川のハクチョウが水草を食べるのも、 草刈りをして働く人々が汗を流すのも、 すべては「生きる」という尊い営みの一部です。
聖書にはこうあります。
「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。 だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」 (マタイによる福音書 6章26節)
美しいハクチョウも、ゴミをあさるカラスも、 みな等しく「空の鳥」であり、今日を生き延びるための命の火を燃やしています。
そして私たち人間もまた、同じ空の下で、 散らかっては片付けるという終わりのない日常を繰り返しながら、 今日という日を懸命に歩んでいます。
その繰り返しの階段を、 半分走り、半分歩きながら上っていくことこそ、 私たちが生きている証そのものなのです。
今日という日を受け入れる
背丈を超える夏草のように、もどかしい壁を感じる日もあれば、 風のない静かな朝に安らぎを覚える日もあるでしょう。それぞれの場所で、それぞれの命が、
今日を生きるための備えをしています。焦る必要はありません。 自分に与えられた階段を、自分のペースで、着実に上っていけばよいのです。見上げれば、そこには広い夏空が待っています。
今日も、共に前進です。
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