デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年7月16日木曜日

生きるための代価

 


命を営む重い代価、それでも私たちが生きる道を選ぶ理由

日常という名の静かなる労力

今朝、娘を駅まで送りました。 今日は岩沼での実習。 元気に歩いていく後ろ姿を見ながら、静かに祈るひと時でした。

午前10時には妻を仙台まで送り、帰りにロピアへ立ち寄って買い物をしました。 頑張っている二人のために、少しでも力になる料理を作りたかったからです。

帰宅してケーキを焼き、料理を整え、ようやく今、一息ついています。 こうして振り返ると、生きるという営みは本当に大変なことだと、しみじみ思わされます。

買い物かごを提げてスーパーの通路を歩き、台所に立って野菜に包丁を入れる。 火を使い、食事を整える。 そんな繰り返される日常の動作のさなかに、ふと「生きる」ということの途方もない重みが胸に迫ってくる瞬間があります。

生きるための代価は、私たちが想像する以上に大きいものです。

 

見えない「代価」と人間の弱さ

人間は、この世界の命あるものの中で、おそらく最も長く親の庇護を必要とする存在です。 赤ん坊として生まれ、幼児期、少年期、青年期を経て、一人前と呼ばれるまでに20年もの時間を要します。しかし、時間が経てば誰もが自動的に一人立ちできるわけではありません。 30代、40代、50代・・・・になっても親のもとで暮らす人がいます。 病気や障害を抱え、どれほど年を重ねても誰かの助けがなければ命をつなげない方々もいます。人間は本来、一人では生きていけない、極めて脆く弱い存在として造られているのです。便利な時代になったと言われますが、私たちの命の営みが「自動的」に行われることは決してありません。

食べるためには、食材を買いに行かなければならない。 買ってきたら、自らの手で調理をしなければならない。 たとえ惣菜を買うにしても、自分の足でそこへ向かう必要がある。

もし病に倒れれば、重い体をひきずってでも病院へ行かなければならない。

簡単ではありません。 楽でもありません。 ただ「生きる」という一点においてさえ、私たちは絶えず動き続け、身を削るような代価を支払い続けているのです。

 

限界を超えて立ち上がる理由

それでも、私たちは投げ出すことなく、重い代価を払いながら「生きる道」を選び続けています。 なぜ、そこまでして歩み続けることができるのでしょうか。

それは、私たちの内に「目的」があるからです。 未来へ思いを馳せる「夢」があるからです。 暗闇の中でも光を見出そうとする「希望」があるからです。 そして何より、共に生き、食事を分かち合う「家族」という存在があるからです。

聖書は、私たちを突き動かす根源的な力についてこう語ります。

「愛は、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」 (コリントの信徒への手紙一 137節)

私たちが台所に立ち、日々の面倒な営みを繰り返すことができるのは、 それが単なる労働ではなく、誰かを思い、生かすための「愛の形」そのものだからです。

 

愛の重さを手に提げて

スーパーからの帰り道、両手に食い込む買い物袋の重さ。 それは、生きる苦労の重さであると同時に、 私が誰かと繋がり、共に生きているという「愛の重さ」でもあります。

人は一人では生きられないからこそ、誰かのために食事を作り、誰かのために祈り、支え合うことができます。 厳しい現実や病に直面したときでも、その代価を共に背負ってくれる誰かの存在が、私たちにもう一度立ち上がる勇気を与えてくれるのです。

簡単ではない毎日を、それでも必死に、そして誠実に生き抜いているあなたへ。 その重い一歩一歩は、決して無駄ではありません。 あなたの営みの中にこそ、最も尊い命の輝きが宿っています。

今日も、共に前進です。

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