偏る記憶と見落とされた平地:苦しみを成長の階段に変える
日付が変わった深夜、愛犬ノアとの静かな散歩を終え、ゴミ出しを済ませました。 夜の静寂の中で呼吸を整え、こうして私自身の「水曜日の歩み」が静かに幕を開けました。
それから数時間後、午前5時を過ぎた頃に再び外へ出ました。向かったのは、いつもの大年寺山公園です。朝のひんやりとした空気の中、公園へと続く長い階段を半分は走って、半分は一歩ずつ、自らの体重と重力と向き合いながら上り、歩き続けました。
階段の重みと、錯覚する時間
息を切らしながら階段を上りきったとき、私の身体には「今日は本当にたくさんの階段を上り続けた」という疲労感と達成感が色濃く残っていました。
しかし、冷静に歩みの道のりを振り返ってみると、ある事実に気がつきます。 実際に階段を上っていた時間よりも、息を乱すことなく「平地」を歩いていた時間の方が、はるかに長かったのです。
それにもかかわらず、私は苦しんで上った階段の記憶ばかりに心を奪われ、平地を苦労なく歩いた長い時間よりも、あの短い苦しみの時間の方を「長かった」と錯覚していました。
人はなぜ、痛みのない穏やかな道のりを忘れ、息の上がるような苦しい道のりばかりを強烈に記憶してしまうのでしょうか。
忘れ去られる「平和な日々」
この大年寺山公園での錯覚は、そのまま私たちの「人生の歩み」に重なります。
私たちは、自分の人生を振り返る時、病気になった時、人間関係で傷ついた時、あるいは経済的な不安に押しつぶされそうになった日々のことを、まるでそれが人生の大部分を占めているかのように語りがちです。
- 痛みがないからこそ、忘れてしまう平坦な道。
- 苦しいからこそ、永遠のように感じる階段。
本当は、苦しんだ日々よりも、何事もなくご飯を食べ、誰かと笑い合い、穏やかに眠りにつけた「平和な日々」の方がはるかに多かったはずなのです。それにもかかわらず、私たちはその大いなる恵みの日々を忘れ、短くも濃密な苦しみの期間だけを記憶に刻み込んで生きています。
苦しみを「どう受け止めるか」という選択
人生における苦しみや痛みは、決して軽いものではありません。その渦中にいる時、時間は鉛のように重く、足取りは止まりそうになります。
しかし、聖書はこの苦しみの時間について、力強い真理を語っています。
「そればかりではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。」(ローマの信徒への手紙 5:3-4)
階段を上る時のあの苦しい負荷がなければ、私たちの足腰の筋肉が鍛えられないように。人生の苦しみもまた、ただ私たちを痛めつけるためのものではなく、私たちの魂を鍛え、より高い場所へと引き上げる「成長のための時間」なのです。
今、あなたが直面している苦しみを、ただの「不幸」として片付けてしまうのか。それとも、新しい景色を見るための「成長の階段」として受け止めるのか。
目の前にある苦しみを「どう受け止めるか」によって、その後の人生の景色は全く違うものになります。
歩きやすい平地の恵みに深く感謝しつつ、目の前に現れる階段からも逃げずに足を乗せていく。 そんなしなやかな心を持って、今日という一日を歩んでいきたいと思います。
今日も、共に前進です。
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