【夜明けの34キロと祈りの形】悲しみのただ中で、生きる者へ愛を注ぐ
深い闇に包まれた午前4時ちょうど。私は静かに走り始めました。
今日のランニングは、ただ距離を踏むためのものではありません。先日、突然天へと召された、一人の若い教会員の死を悼み、そのご遺族の深すぎる痛みと悲しみを心に刻みながら走る「祈りの34キロ」でした。暗いアスファルトを踏みしめるたび、やり場のない喪失感と、遺されたご家族の流す涙が胸に迫ってきます。
形式ではなく、心がどこにあるか
今回、教会の葬儀として彼を見送ることは叶いませんでした。 明日、葬儀会館で行われる前夜式、そして明後日の葬儀には、私も一人の参列者として赴くことになります。
しかし、私がこの足で走りながら深く思い巡らしていたのは、「形式」のことではありません。最も大切なのは、私たちの「心」がどこにあるかということです。
日本の一般的な仏式の葬儀では、祭壇に向かってお線香をあげる習慣があります。キリスト者であっても、周囲に合わせて同じようにされる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、もしその行為が持つ本来の意味を知ったならば、私たちはそっと手を合わせ、静かに「祈る」ことを選ぶはずです。
慰めと希望は、生きている者のために
キリスト教における葬儀の目的は、「死者を祭ること」ではありません。
なぜなら、天に召された魂は、すでに神様の絶対的な平安と温かい御腕の中にあり、私たちが何かを付け足したり、供養によって安らぎを与えたりする必要はもう何一つないからです。故人に対して、私たちがこの手でできることはもうありません。
では、なぜ私たちは葬儀に集い、祈るのでしょうか。 それはひとえに、今を生きるご遺族のためです。
- 愛する者を失い、絶望の淵にいるご家族を慰めるため。
- 悲しみを共に担い、孤独ではないと伝えるため。
- そして、死は永遠の別れではなく、いつか天の御国で再会できるという「復活の希望」を共に分かち合うため。
私たちが祭壇の前で頭を垂れるとき、その祈りの矢印は、故人を越えて、遺された悲しみの中にあるご家族へと向かっています。慰めと愛は、今を生き、涙を流している人のためにこそ注がれなければならないからです。
走り続け、祈り続け、愛し続ける
ご遺族の痛みを思いながら34キロを走り終えたとき、私の9月のランニングノートに一つの区切りが刻まれました。今月は20日間、毎回約30キロの朝ランを重ね、その中に3度のフルマラソンを含めて、目標であった「月間600キロ」を初めて達成することができました。しかし、この600キロという数字は、ただの記録ではありません。
一歩一歩、誰かのために祈り、自らの弱さと向き合い、神様の愛を確かめながら積み上げた、魂の歩みの結晶です。命は脆く、明日がどうなるかは誰にも分かりません。 だからこそ、私は落胆の中にとどまることなく、今日という日を精一杯生きます。
来月もまた、夜明けの道を走り続けます。 悲しみの中にある人のために祈り続けます。 そして、この地上で許された命の限り、隣人を愛し続けます。
どうか皆様の今日という一日が、目に見える形式にとらわれず、目の前にいる大切な人へ「生きた愛」を注ぐことのできる、豊かな時間となりますように。
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