さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。(ヨハネによる福音書20章26-28節)
キリスト者の居場所は神様を礼拝する場であります。それは必ずしも教会堂を指すのではありません。
教会の真の意味は主にある兄弟姉妹たちの集いを指しているからです。常に神様を礼拝する心と姿勢で生きることが大事であるのです。そして何よりも主にある群れの中に留まることが重要であるのです。
しかしその群れの中には強い信仰者ばかりではありません。信仰の弱い者、主の約束を疑う者、信仰から離れようとする者などいろいろな人々がいるのです。でも仮に疑う心があったとしても、信仰が弱くなったとしてもその群れの中に留まることが大事であるのです。その理由を上記の聖書が教えているからです。イエス・キリストの復活を疑っていたトマスは疑いながらも、しかしその群れから離れず留まっていたのです。その結果、彼は再び主によって信仰が与えられ、主を告白することが出来ました。そして最後はインドで主の福音を宣べ伝えていたときに殉教したと言われています。
大事なのは留まり続けることです。どんな場合でも決して主の群れから離れず留まり続けることです。毎回、恵み豊かな、感動の礼拝ではなくても、その場から離れず礼拝し続けることです。すると再び信仰が与えられ、恵み豊かな時が訪れるのです。そういう信仰によって生きるのがキリスト者であるのです。現在、教会の礼拝から遠ざかっている兄弟姉妹たちがいるならば彼らのために祈り続けることです。彼らに必要なのは執り成しの祈りであり、主を信じることが出来る信仰であるからです。わたしたちの祈りを必ず聞いて下さる神様を信じて祈り続けることです。それが主から与えられた私たちの使命でもあるのです。マラナタ!
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