2022年7月8日金曜日

世界はここから変わっていく

 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。(ローマの信徒への手紙832-35節)

 


来週は4時間だよ、木・金は文化祭。

お弁当は持っていくでしょう?

大丈夫!

じゃー、おにぎりにしようか。

再来週は三連休だし、

うちは火曜日も休みだよ!

四連休になるのか!

そして夏休み!

早いね!

その内、3年になり、受験生。

大学か!

だから一日一日を大事にして、楽しく過ごすことだね。

そうだね。

今朝、車で娘を駅まで送るときの平凡な親子の会話である。

 


環境や状況に影響されやすい人間にとって苦しい状況や環境が訪れた時には忍耐が必要である。しかしただの忍耐では耐えることができない。そこには希望が必要である。希望があるからこそ、忍耐して乗り越えられる。この苦しみも過ぎ去るだろうと信じて我慢し、希望の一歩を踏み出せるのである。問題はその希望というものが確かな希望なのか、ただの幻なのかが重要である。必ず訪れる希望なのか、途中、消えてしまう希望なのかが問題である。確かでない希望には今の苦しみに耐えられる力がないからだ。

 


希望というものを自分の力で引き寄せることが出来るのか?そもそも希望とは何か?何を希望と考えて待っているのかが大事である。目に見えない、まだ手に届かないところにあるもの。しかし自分にとって絶対に必要としているもの。今の最悪な状況と環境を変えてくれるもの。喜びを、笑顔をもたらせてくれるもの。多くの人はそれを希望と考える。僕自身もそう考えている。少しでも今の厳しい状況を変えてくれるもの。せめて自由に、快く息をし、悩まず、心配せず無事に過ごす日を望みながら生きている人々も大勢いる。しかし、思う通りに、自分の期待している通りの日が続かず、再び悩みと苦しみと不安な日が予告なしに突然、訪れることだ。この世の人生がそういうものならば運命として受け入れる人もいる。

あるいは運命を開拓して生きる人もいる。運命を信じないのがキリスト者である。すべてを神様の御手に委ねて生きる人がキリスト者である。ある意味、これは一番楽な生き方かもしれない。自分で悩まず、心配せず、思い煩うこともなく、生きられるからだ。重荷を主に委ねよ、と聖書は繰り返して教えている。

ならば委ねて与えられた今日の人生を精一杯に生ればいい。神様を愛し、隣人を自分のように愛し合いながら生きることである。明日のことも主に委ねて生きる。明日の事まで悩み、心配することはない。心配したからと言って何かが起こることもない。今を生きることが大事である。与えられた24時間の時を正しく、よく用いて生きることである。前にも話したように大義とはこういうことである。少しは自分と周りの人々に優しく、笑顔で生きるように・・・・・・世界はそこから変わり始まるからだ。生きる!

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