信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。(ヘブライ人への手紙11:6)
それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。(ヨハネによる福音書3章15-20節)
ギュイヨン夫人(Jeanne-Marie Bouvier de la Motte-Guyon、1648年4月13日 - 1717年6月9日)は
「あなたの人生の問題に関する回答を得ようとする心が湧いてきたとしても、決してその旅程を始めてはならない。おそらくあなたは成功しないだろう。なぜならそれは回答が得られない旅程であるからだ。答えのない質問、なぞ、到底理解できない事柄、出来事、そして何よりも不公平な事柄、これらのことは誰でも分からない。」と言いました。
聖書をよく読んでみますと、人の人生の問題について聖書はほとんどが答えないことが分かります。
身体にハンディをもって生まれた人々、突然の災難、家族の死、不幸な出来事(例えばヨブ)などについても聖書は不思議に沈黙しているのです。わたしたちが期待し、ほしがる明白な答えを避けているのです。人は不幸に遭うと神様に怒りをぶつけることがあります。特にクリスチャンの中によく見られる姿です。ちゃんと(?)信仰生活をしていたのになぜ自分にこういう不幸が訪れたのか?と文句を言います。ときには神様を呪う人もいるのです。それでも神様は沈黙なさいます。それは感情の問題ではないからです。またこの世の考えとははるかに異なるからです。善を成す人は祝福され、悪を行う人は不幸になることでもありません。
事実、悪人がどれだけ豊かに暮らし、幸せそうに見えるのか・・・反対にあんなに良い人がなぜ病気がちで、不幸で、貧しく暮らしているのか・・・・この世の基準でも図れないことがいっぱいあるのです。こういう世界になったことを聖書は簡潔で、明確に答えています。人間が神様の御前で罪を犯したこと、その結果、死が訪れたこと、その死後には裁きが待っていることを語っています。だから罪から産み落とされた人間に苦痛が伴い、不幸な出来事が訪れるのは当たり前だと言うのです。
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