2022年10月19日水曜日

話し合うことがカギである

 


イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ(Compassion)。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。(マタイ15:32)

 


相手の立場から物事を考えるのはそう簡単な事ではない。また誰でも出来ることでもない。特に今のように他人の事には関心がなく、自己中心的な生き方で生きている人々が多い世界ではめったに見られない姿である。さらに家族の間ですらそれはあんまり見られない姿である。いつも自分の都合と自分の立場から相手を判断し、行動するからである。先日買物のためにスーパーに行ってレジで計算してもらっていたが後ろの中年の夫婦の言い争いが聞こえてきた。朝から・・・・・それも買物の品物のことでの争いだった。世界の飢餓や紛争や不公平な社会のシステムのためではない。ただの買物の品物のための言い争いだった。・・・・・

 


しかしこれは我々人間社会で起こっている姿である。いつでも見られる、どこの家庭でも起こっている、起こり得る姿である。世界の平和のために、大義のために喧嘩する夫婦はあんまりいない。考えて見ればつまらないことで喧嘩し、お互いに傷つき、苦しむのである。喧嘩して愉快な気分になるのは悪魔だけであるかも・・・喧嘩をしたら嫌な気分になる。それが分かっているけれども喧嘩してしまう。口を滑らし、我慢することが出来ない。大目に見てあげることも出来ない。言わなければ気が済まないからだ。結局、根本的な問題は自分にある。しかしそれを認めないで相手にその問題があると思い込んでしまう。

 


そのために改善されずに同じことが繰り返されている。それが人生だと考えている人々もいる。しかしそれは人生ではない。そういう人生のために生まれたわけではない。人生は長いと考える人もいれば短いと考える人もいる。でも人生は短い。聖書は短いと定義しているからだ。笑って、笑顔で、愛し合って生きるための人生はそれほど長くはない。明日、何が起こるかもしれない。はたして自分が生きているかもわからない。突然の事故や事件に巻き込まれてこの世を去り人々は少なくない。自分にもそういう可能性は100%ある。だから一日が最後の日のように生きることである。相手の欠点ばかりに目を止めないで、良いところに目をとめて生きることも重要である。しかし限界が・・・・・・

 


多くの場合、これらの問題が爆発する要因は、普段から会話なしに生活しているからである。自分の気持ちを相手に伝えないからである。多くの場合、人々は勘違いして生きている。相手が自分の気持ちを分かっていると思い込んでいるために問題が爆発するのだ。いくら夫婦でも言わなければわからない。いくら親子でも言わないとわからない。これが全ての人間関係における定義である。自分の気持ちを正しく、明確に伝える習慣がない、それに慣れてない家族は苦しみを味わっている。

 


まだ共に生きることを考えるならば、守って行こうと決めたならば話し合うことを止めないことだ。諦めずに自分の気持ちを、心を相手にはっきりと伝えることが家族や職場や社会をより平和に保たせるカギとなる。生きることを考えるならば話し合うことである。これは自由に、平和の内に、笑顔で生きるためには欠かせないことである。今日も精一杯に生きることである。なぜなら我々は生きるために生まれたからだ。

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