2022年10月31日月曜日

慰めよ

 


慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。 エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。 罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と。 呼びかける声がある。 主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。 険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。 主の栄光がこうして現れるのを 肉なる者は共に見る。 主の口がこう宣言される。(イザヤ書40:1-5

 

マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ヨハネによる福音書11:32-35節)

 

人が突然の出来事によって命を失うと悲しむよりはその原因分析をする人々がいる。横断歩道で渡ればよかったのに、と言う。その現場に行かなかったら良かったのに、と言う。でも人間の死は突然訪れるものである。予告なしにやってくる。危険を感じることもあるだろう。それでも人間の死は誰一人予想できないものである。聖書で主イエスは人が死んだ時、その死の原因分析や責任を問わなかった。ただ遺族と共に涙を流し、共に悲しみ、その痛みに寄り添って下さったのである。今、我々に必要なのは共に悲しみ、遺族のための慰めと祈りである。神様が私たちに求めるのは憐みの心である。つまり、相手の立場で悲しみと涙、そして共に祈ることである。

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