イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。(ルカによる福音書7章12-15節
もう泣かなくともよい。
主イエスがそこにいて遺族たちにそのようにおっしゃってくださればどれだけ良いだろうか。彼らには、彼女たちには、今出来ることは愛する家族のために泣く事しかできないのです。
犠牲者の中で一番若い人は15歳の中学生で、高校生も5名が犠牲になった。多くの若者が犠牲者になったのである。遠い国々からやってきた外国人の青年たちも犠牲になった。日本でもお二人が・・・
泣くしかない。生きている者が死んだ方々に対して今出来ることは泣く事しかできない。そして愛する娘を、息子を、兄弟を、姉妹を、孫を、友達を、家族を亡くして深い悲しみの中にいる人々のために祈ることである。まだ花咲かず、これから人生を歩もうとしていた若き人々のことを心に留めながら精一杯に生きることである。決して彼らの、彼女たちの間違いではない。死は突然訪れる。その前で無力な人間は何一つ手を付けることが出来ない。
しかし、その無敵と思われる死をイエス・キリストが打ち破り、復活なさったのである。それによって死は力を失い、ただこの地上での働きしかできなくなったのである。それがこの地上での人間の死である。イエス・キリストによってもたらされた真の命を死は決して邪魔することも害を与えることも出来ない。
もうそういう力はないからだ。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。(コリントの信徒への手紙一15章55-57節)
今日は祈り、歩き、走り、生き続ける。
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