あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。(ヤコブの手紙1:5)
If any of you lack wisdom, let him ask of
God, that giveth to all men liberally, and upbraideth not; and it shall be
given him.(JAMES 1:5)
So aber jemand unter euch Weisheit mangelt,
der bitte Gott, der da gibt einfältig jedermann und rücket's niemand auf, so
wird sie ihm gegeben werden.(JAKOBUS 1:5)
冷え込む夜を歩く。
同じ道を毎日歩く。
毎日、夜、道を歩く。
いつか、その道を歩く人も、犬も、消えて行く。・・・・・・
願い事があるならば、願い求めるべし。
ただその願いをかなえて下さる方に願うがよい。
誰にでも惜しみなく与えて下さる方がいることはありがたい。差別なしに誰にでも与えて下さる方である。しかし祈り求めることが先である。求めなさい。そうすれば与えられる、という。けれども神様に求めず、願わず、人に願い、求める人々が多い。あるいは神様に願う場合も切実に願うのでもなければ、別に与えてくれなくても問題はないという気持ちで願うのである。だから与えられないのは当然である。本当に必要なこと、ものであるならば熱心に求めるべきである。神様が見るのはその切実な心と姿である。
現代のキリスト者に一番欠けているのは熱心さである。今は熱心なキリスト者が少ない。熱心な祈りがささげられるのもまれである。熱心に伝道する人も少ない。熱心に奉仕する人もいない。使徒行伝の特徴は「熱心」である。初代教会の人々は熱心に祈り、熱心に集い、熱心に奉仕し、熱心にみ言葉に耳を傾け、熱心に伝道に励み、熱心に愛し合っていた。
今は何もかも冷めている。もう一度、聖霊の炎が冷めている教会の上に降るべし。
それが教会が生き続けるカギである。そして私たちの信仰が元気に生き続ける秘訣である。
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