2023年3月3日金曜日

我が力

 


わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし/聖なる高台を歩ませられる。(ハバクク3:19

The LORD God is my strength, and he will make my feet like hinds' feet, and he will make me to walk upon mine high places. To the chief singer on my stringed instruments.(HABAKKUKU 3:19)

Denn der HERR ist meine Kraft und wird meine Füße machen wie Hirschfüße und wird mich auf meine Höhen führen. Vorzusingen auf meinem Saitenspiel.(HABAKUK 3:19)

力があるか、ないか。

強いか、弱いか。

食うか、食われるか。

勝つか、負けるか。

いわば弱肉強食主義は人間が誕生し、罪を犯して神様から離れて暮らすときから始まった。

共存共栄を訴えるけれども、実際にこの世界と社会に根強く人々の心を捉えているのは弱肉強食主義である。そして多くはそれに従って生きている。ローマ帝国時代にはそれがもっと強かった精神である。力ある者のみが生きられる。その中で帝国内の小さな植民地、それも辺鄙な田舎の町から共存共栄の声が神の御子イエス・キリストからあがったのである。しかし誰一人関心を寄せず、期待もせず、愚かで、時代に逆らう、夢の話だと考えていた。主イエスはそのことを言葉だけではなく、行いを通して示してくださった。荒れ野で五つのパンと二匹の魚で男だけで5000人を満腹させたことや困っている人々、病気の人々を快く助け、癒したことがそれである。それ以来、2000年が過ぎた今は、その両方の精神の下で世界は動いている。どちらも力が劣っていない。どちらもなくならない精神である。


しかしいつか結果が出るだろう。どちらが正しかったのか。弱肉強食主義か、共存共栄主義か。でもこの二つはすべて罪人である人間が考えた精神である。人々は主イエスが示した共存共栄主義だけをとって主イエスは消してしまった。共存共栄主義をまるで人間が考え出したかのようにし、それを示した主イエスをなくしたのである。そのために最後には両方ともなくなり、信仰によって生きた群れだけが残るようになる。主の恵みによって生きる群れだけが残るようになる。もっと正確に言うと信仰によって救われた群れだけが御国へと導かれるようになる。そしてその恵みの下で永遠に暮らすようになる。主こそ、我が力である。これを信じて、今日も主に頼り、主からの力を得て生きるべし。



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