大惨事が起きると、速報が流れ、死者の数が報じられます。事故の原因を探る報道機関の憶測が飛び交い、多くのデマが広がります。専門家による事故分析が行われ、犠牲者一人ひとりの物語が語られます。補償問題が浮上し、遺族の怒りが報じられる――そして、時が過ぎると、次第に話題は消えていきます。残されるのは、遺族の深い悲しみと無念だけです。これが、この世で起きる大きな事故や事件に対する一連の流れであり、罪に満ちた世界の現実です。
しかし、イエス・キリストの神様は、この世の人々の関心とは全く異なるところに立っておられます。神様は、遺族の痛みと悲しみに寄り添い、涙を流しながら、その傷が癒えるまで決して側を離れることなく、いつまでも共にいてくださるお方です。
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突然の悲劇により、愛する家族を失うという現実は、言葉では表しきれないほどの痛みと悲しみをもたらします。飛行機事故という予期せぬ出来事で、大切な人を失った遺族の方々の心の中には、深い喪失感と絶望が渦巻いていることでしょう。そのような状況の中で、私たちは何を語り、どのように寄り添うことができるのでしょうか。
聖書の中には、悲しみの中にある人々に向けられた神の言葉が記されています。イザヤ書40章1節には、こうあります。
「慰めよ、わたしの民を慰めよ、とあなたがたの神は仰せられる。」(イザヤ書40:1)
この言葉は、バビロン捕囚という苦難の中にあったイスラエルの民に向けられたものでした。彼らは故郷を失い、希望を見失い、深い悲しみの中にいました。しかし、神はそのような彼らに「慰めよ」と語りかけられます。この「慰めよ」という言葉には、単なる励まし以上の意味があります。それは、神ご自身が悲しみの中にある人々に寄り添い、彼らの痛みを知り、共に歩まれるという約束です。
また、新約聖書には、主イエスがラザロの死を悲しむ人々と共に涙を流された場面があります。
「イエスは涙を流された。」(ヨハネ11:35)
この短い一節は、イエスが私たちの悲しみをどれほど深く理解しておられるかを示しています。イエスは神の御子でありながら、人間としての感情を持ち、私たちと同じように涙を流されました。ラザロの死を悲しむマルタとマリア、そして周囲の人々の痛みを見て、イエスはその悲しみに心を動かされ、共に涙を流されたのです。
愛する家族を失った悲しみは、簡単に癒えるものではありません。時間が経っても、心の中にぽっかりと空いた穴は埋まらないかもしれません。しかし、神はその悲しみを無視されることはありません。むしろ、神はその悲しみの中に深く入り込み、私たちと共に涙を流し、慰めを与えてくださるお方です。
悲しみの中にあるあなたへ、神の「慰めよ」という言葉が届きますように。そして、涙を流された主イエスが、あなたの心の痛みを知り、共に歩んでくださることを覚えてください。神の慰めは、私たちの理解を超えた深い愛と平安をもたらします。その愛が、少しずつでもあなたの心を癒し、希望を取り戻す助けとなりますように。
最後に、詩篇34篇18節の言葉を贈ります。
「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。」
あなたの悲しみの中に、主が共におられることを信じて。
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