"Life,
Death, and the Divine Manual - Understanding the Purpose of Human
Existence"
『いのちの意味を問いつつ - 人間存在と神の示された生き方』
私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。(ローマ6:8-11)
人間という存在の特異性は、「どう生きるべきか」という根源的な問いを持つことにあります。動物が本能のままに生きる一方で、人間は常に自らの生き方を問い続けます。この人間特有の実存的な問いかけは、私たちの存在の本質を理解する鍵となります。
事象の本質を理解する上で、時として対極にあるものとの比較が有効な視点を提供します。生きることの意味を深く理解しようとするとき、私たちは必然的に死について考えることになります。例えば80年の生涯を生きるということは、同時に80年分の時を死に向かって歩むということでもあります。この逆説的な真理に気づくとき、私たちは初めて生きることの本質的な意味を理解し始め、創造主である神を求める心が芽生えるのです。
神の言葉である聖書は、創造主から与えられた人生の使用説明書と言えます。高価な製品を購入したときに、その説明書を丁寧に読んで使用するように、最も尊い命をどのように生きるべきかについて、私たちは聖書から学ぶ必要があります。多くの人々が正しい人生を願いながらも失敗する主な理由は、不完全な人間を基準としてしまうことにあります。
私たちは神によって創造された存在であり、神が与えてくださった人生の指針に従って生きることで、真に意味のある人生を歩むことができます。しかし、死は予告なく訪れることがあります。多くの人は日常的に死を意識せず、また永遠に生きるとも考えていません。この無意識が、突然の死に対する無準備をもたらすのです。
しかし、キリストの福音は私たちに希望を与えます。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」という御言葉が示すように、主イエス・キリストによって死の恐れから解放された私たちは、感謝をもって生きることができます。この信仰に立って人生を全うすることこそ、真の意味での「生きる」ということなのです。
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