「Running
Prayer: What 1,200km of Marathon Taught Me About Pastoral Ministry」
「走り続ける祈り ―― 1200kmのマラソンが教えてくれた牧会の本質」
私自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。私は戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、私だけでなく主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けてくださいます。(テモテ二 4章)
早朝の静寂を破るように、私の一日は始まります。愛犬ノアとの散歩を終えた午前3時、まだ暗い仙台の街を走り始めます。この40日間で累計約1,200キロメートル、毎日30キロを走り続けてきました。三桜高校の坂道から野草園、八木山動物公園を抜け、広瀬川沿いを走る道のりは、私にとって大切な祈りの時間となっています。
走ることは、決して楽ではありません。時には「今日は休もうか」という誘惑と闘うこともあります。しかし、この走りが一日の流れを整え、牧会の土台を作ってくれることを知っているのです。スマートフォンも持たず、ただ走りながら祈り、説教のことを考える。この単純な行為の中に、実は深い意味が隠されていました。
昨年12月から本格的に始めたランニングですが、一度として楽に感じた日はありません。多くの人は「達成感のために走る」と言いますが、私にとってのランニングは違います。それは一日の「潤滑油」のような存在で、牧会という使命のために自分を整える時間なのです。
走りの後は、会堂での30分の祈り。そして午後には大年寺階段から向山、愛宕神社、広瀬川沿いを歩きながら再び祈ります。一日の約半分を外で過ごすこの生活が、現在の牧会の原動力となっています。絶えず祈りとみ言葉、信仰的な思考に浸ることで、牧会に集中できる環境が整うのです。
使徒パウロは「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4:13)と語りました。彼は福音のために自分のすべてをささげ、ひたすら主のために走り続けた人でした。その生き方に少しでも倣いたいと、日々走りながら思います。
明日からはアキレス腱の痛みのため、距離を少し短くすることになりました。しかし、これもまた主が教えてくださる新しい気付きなのかもしれません。体の声に耳を傾けながら、でも決して立ち止まることなく、信仰の道を走り続けていきたいと思います。
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