「Waiting in a
Fast-Paced World: A Biblical Call to Patient Faith」
「加速する世界での待つ姿勢 ―― 聖書が教える忍耐の信仰」
しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し(テモテ二3:1-4)
使徒パウロはテモテへの手紙の中で、私たちの生きる「終わりの時」について具体的な警告を与えています。特に、人々が「軽率」になることへの懸念は、現代社会を鋭く言い当てているように思えます。科学技術の発展は、私たちの生活に驚異的なスピードをもたらしました。1950年代までは50年周期で倍増していた知識が、今や加速度的に増加し、2050年には現在の知識の99%が陳腐化すると予測されています。
この超高速社会の中で、現代人は「待つこと」を忘れつつあります。ファストフードに象徴されるように、私たちの生活は「すぐに」「今すぐ」を求めるようになりました。結果だけを重視し、過程を軽視する傾向は、特に子どもたちの成長に大きな影響を与えています。
しかし、聖書が示す信仰の本質は、まさにこの「待つこと」にあります。それは単なる時間の経過ではなく、深い霊的な意味を持っています。聖書が教える「待つ」には、三つの重要な側面があります。
第一に、「待つ」とは神の約束を信じることです。それは神の言葉の真実性を信じ、その実現を確信することです。第二に、神には最善の時(タイミング)があることを理解し、その時を待つことです。
アブラハムは約束の子イサクの誕生まで25年もの間、信仰を持って待ち続けました。第三に、それは神の究極的な勝利を信じることです。ローマ書8章28節が語るように、「神を愛する者たちには、万事が益となるように共に働く」という約束を信じることです。
私たちは特にこの「待つ」という信仰の姿勢が必要です。それは暗闇の中にあっても、必ず光明へと導かれるという確信です。たとえ目の前が見えない暗いトンネルの中にいるように感じても、神は私たちを平安と希望に満ちた世界へと必ず導いてくださいます。
この超高速の時代にあって、私たちはむしろ「待つ」ことの霊的な意味を再発見する必要があります。それは単に受動的に時を過ごすことではなく、神の約束に積極的に信頼を置く、能動的な信仰の姿勢なのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿