アスファルトを焦がす熱気の中、不意に降り出したにわか雨は、まるで乾ききった喉を潤す一杯の冷たい水のように、心をほっとさせてくれる。
季節は、本格的な夏を迎えようとしている。
風鈴の涼やかな音色、瑞々しいスイカ、生命を謳歌する蝉しぐれ。
そして、あのつるりとした喉ごしの、そうめんの季節だ。
今日は、昨日から丁寧に下味を仕込んでおいた韓国風の焼き肉と、夏には欠かせないそうめんを食卓に並べた。帰宅した妻と二人で囲む(娘はバイトなので)、ささやかな晩餐。我ながら90点はつけられるだろうか。なかなかの出来栄えに、心も満たされる。
買い物に行き、食材を選び、ひとつひとつ下ごしらえをする。そんな目に見えない時間と手間があって、一皿の料理は完成する。しかし、その舞台裏の物語は、作り手以外にはほとんど知られることがない。
人はあまりにも、表面に現れたものだけで物事を判断し、結論を下すことに慣れてしまっているのかもしれない。レストランの客が、厨房での料理人たちの奮闘に思いを馳せることなく、ただ出された一皿を味わうように。もちろんそれが当たり前なのだろう。けれど、日ごろから手を動かし、何かを生み出すことに心を砕いていると、つい、その見えない背景にまで思いを巡らせてしまうのだ。
そんなことを、ふと考えた夏の夕暮れだった。
今朝も、21キロの道のりを走り、心地よい汗を流してから一日が始まった。気づけばもう、窓の外は夕闇に染まっている。時は矢のように過ぎ去っていく。こうして一日が終わり、やがて人生も終わる。
終わらない人生など、ありはしない。
もしそんなものがあるとしたら、それは地獄と呼ばれる場所かもしれない。
「終わり」という終着点があるからこそ、私たちは「今」という時間がいかに尊いかを考え、精一杯に生きようとするのだろう。
苦しみも、痛みも、深い悩みも、切ない悲しみも。
そして、天にも昇るような喜びでさえも。
すべては必ず過ぎ去り、いつか終わりを迎える。
ただ一つ、私が決して手放したくないものがある。
それは、始まりであり、終わりであるあの方が与えてくださる、永遠の希望だ。
それがあるからこそ、「今」を生きる意味が生まれる。この確かな光があるからこそ、私たちはどんな道のりも歩んでいける。
命ある限り、今日のこの一歩を、大切に踏みしめていこう。
昨日までのように、今日一日を。
そして、明日へと続く道を、ただひたむきに。
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