休む朝にも、前へ進む道がある
今朝は、ランニングを休むことにした。
走らない朝には、走る朝とは違う静けさがあります。足を前に出す代わりに、呼吸を少し深くする。汗を流す代わりに、時間の流れをゆっくり受け取る。いつもなら道の先を見つめている時間に、今日は少し立ち止まっている。でも、不思議なことに、立ち止まることは後退ではありません。休む朝にも、前へ進む道があるのだと思います。
ノアちゃんと歩く、2キロの道
9時過ぎには、愛犬ノアちゃんの狂犬病予防接種のために、ここから約2キロ離れている動物病院まで歩いていく。「ランニングは休む」と決めた朝に、別のかたちで歩く用事がある。それもまた、どこか象徴的です。走るための道ではなく、守るための道。自分を鍛えるためではなく、大切な命を守るための道。ノアちゃんと一緒に歩く約2キロには、速さでは測れない意味があります。日々の生活には、華やかな出来事ばかりではありません。
予防接種に行く。予定を整える。朝を少しゆっくり過ごす。次の働きに備える。けれど、そうした一つひとつの小さな行為の中に、人生の誠実さは宿っているのだと思います。
「休む」と「頑張る」は、矛盾しない
「今日も頑張って生きる。」
この言葉には、力みだけではない深さがあります。なぜなら、今日はランニングを休む朝でもあるからです。休むことと、頑張って生きること。一見すると反対のように見えるこの二つは、実は深いところでつながっています。頑張るとは、いつも全力で走り続けることだけではない。頑張るとは、今日の自分の状態を正直に受け止めることでもある。頑張るとは、大切なものを大切にするために、歩幅を整えることでもある。走る日がある。歩く日がある。立ち止まる日がある。そして、そのすべての日を通して、私たちは生かされています。
次に待っているものへ
ノアちゃんの予防接種というミッションが終わると、次に心にあるのは、今度の31日の静岡草深教会での青葉伝道礼拝と講演会。その日を楽しみにしている。そして何よりも、20年ぶりの再会がとても楽しみである。20年という時間は、短くありません。その間には、語り尽くせない日々があったはずです。喜びも、痛みも、試練も、祈りも。会わなかった時間の長さは、単なる空白ではなく、それぞれが歩いてきた道の重なりです。再会とは、過去に戻ることではありません。あの頃の自分に会いに行くことでもあり、今ここまで導かれてきた自分を確かめることでもあります。20年ぶりに会う人の前に立つとき、私たちはきっと思うのです。ここまで来たのだ、と。守られてきたのだ、と。まだ歩いているのだ、と。
神は、今日の歩幅も知っておられる
聖書には、こうあります。
「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。」(詩編 37編23節)
この言葉は、特別な日だけに向けられたものではありません。
大きな講演会の日だけではない。礼拝で語る日だけではない。懐かしい誰かと再会する日だけでもない。ランニングを休む朝にも。愛犬と動物病院まで歩く道にも。少しゆっくり過ごす時間にも。「今日も頑張って生きる」と心の中でつぶやく瞬間にも。主は、その一歩一歩を見ておられる。私たちは、つい「前進」を大きな成果や目に見える達成で測ってしまいます。けれど神の目には、静かな朝の忠実さも、祈りに似た歩みとして映っているのではないでしょうか。
今日を生きるという、小さな信仰
今日を生きる。それは簡単なようで、決して軽いことではありません。
身体を起こす。予定を受け止める。大切な存在のために歩く。次の働きに心を向ける。再会を楽しみにする。そして、今日も頑張って生きると決める。その一つひとつが、小さな信仰の形です。信仰とは、遠くの空だけを見上げることではなく、今日の足元を丁寧に踏みしめることでもあります。祈りとは、言葉になる前から始まっていて、朝の静けさの中に、歩き出す靴音の中に、すでに息づいているのかもしれません。
休む朝の向こうに、再会の光がある
今日は走らない。けれど、歩く。ノアちゃんと動物病院へ向かう。31日の静岡草深教会での青葉伝道礼拝と講演会を楽しみにする。20年ぶりの再会を待ち望む。そして、今日も頑張って生きる。その歩みは、決して小さくありません。
人生は、いつも全力疾走では続かない。時には休み、時には歩き、時には懐かしい人との再会を希望として抱きながら、私たちは今日という道を進んでいく。朝の光は、急ぐ人だけを照らすのではありません。ゆっくり歩く人の足元にも、同じように注がれています。だから今日も、与えられた歩幅で。無理に急がず、しかし希望を手放さずに。
今日も、共に前進です。


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