帰りのスーパーで、私は一本のサバを見送りました。本当は、今日はあの店の焼きサバ定食を食べるつもりでした。昨日の夜から、心はすでに決まっていました。脂ののったサバ、大根おろし、湯気の立つ味噌汁、白いご飯。忙しい二日間を終えた自分への、小さなご褒美でした。教区総会を終えた帰り道、張り詰めていた時間がようやくほどけ、肩に食い込んでいた見えない重りを下ろしたような気持ちになっていました。
「今日は、ゆっくりサバ定食を食べよう。」
そう思っていたはずなのに、気がつけば私はスーパーのカゴにキャベツともやしと豚肉を入れていました。家族の夕食を作ろう。ただ、それだけでした。
不思議なもので、人は疲れている時ほど「自分のため」より「誰かのため」に動くことで、心が整っていくことがあります。キッチンに立ち、包丁の音が響き、フライパンの上で野菜が跳ね、コチュジャンの香ばしい匂いが部屋に広がっていきました。誰もまだ帰ってきていない静かな家の中で、私は一人、湯気の向こうを見つめていました。
すると、娘から連絡が入りました。
「今から終わるよ。」
昨日までは「スタバでコーヒー買って待ってるね」という約束でした。しかし予定が変わり、「一緒にスタバへ行こう」という話になりました。人生は、こうした小さな変更に満ちています。私たちは毎日、「こうなるはずだった」という設計図を心に描いて生きています。予定通り進めば安心し、狂えば少し苛立ちます。けれど最近、私は思うのです。
神様は時に、私たちの予定を“壊す”のではなく、“書き換えて”おられるのではないか、と。
サバ定食を失った代わりに、私は家族の食卓を得ました。先にコーヒーを買って待つ代わりに、スタバに向かう中で娘と話し合う時間を得ました。もし予定通りサバ定食屋に入っていたら、私はきっと満腹にはなったでしょう。しかし今日ほど、心は温かくならなかったかもしれません。
聖書にはこうあります。
「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」(箴言16章9節)
人は計画します。それは悪いことではありません。むしろ、真剣に生きている証拠です。
しかし本当に大切なのは、「予定通り進んだかどうか」ではなく、予定外の出来事の中で何を受け取ったか、なのかもしれません。明日は、愛犬ノアの13回目の狂犬病予防接種の日です。13年という数字は短く見えますが、その中には数え切れない朝と夜があります。
散歩道。眠る姿。家族の笑い声。病気を心配した日。帰宅を喜んで飛びついてきた瞬間。
命を守るというのは、劇的なことではありません。毎年変わらず病院へ連れて行くこと。
ご飯を準備すること。名前を呼ぶこと。「今日も生きていてくれてありがとう」と心のどこかで思うこと。愛とは、案外こうした地味な継続なのだと思います。派手ではなく、誰にも褒められない。しかし、その積み重ねが人生を静かに支えています。
だから私は思います。人生は「特別な成功」でできているのではなく、予定変更の連続の中で、それでも誰かを愛そうとした時間でできているのだ、と。
夕暮れのスタバで、娘と並んでメニューを見つめ、冷たいコーヒーのカップを受け取り、何気ない会話を交わしました。その瞬間、私は気づきました。今日という日は、決して「計画通りに進まなかった日」ではありませんでした。むしろ、計画以上の恵みが静かに流れ込んだ日だったのです。もし今、あなたの人生にも「予定外」が起きているなら、どうか絶望しないでください。遠回りに見える道の途中でしか出会えない景色があります。失ったと思ったその場所に、別の贈り物が置かれていることがあります。
神様は、私たちから何かを奪うためではなく、もっと深い喜びへ導くために、時に予定を書き換えられるのです。だから今日も。完璧にできなかった自分を責めるのではなく、思い通りにいかなかった一日の中に隠されている小さな恵みを探してみましょう。湯気の立つ食卓。誰かと分け合うコーヒー。帰りを待ってくれる命。「おかえり」と言える家。
それだけで、人はまた明日を生きていけます。
今日も、人生は美しく続いています。

0 件のコメント:
コメントを投稿