心のチューニングと、吹き抜ける聖霊の風
ペンテコステの熱気と、会議後の静かな疲労
今日は、教会に聖霊が降ったことを記念するペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝でした。恵みに満ちた時間を過ごした後、私はそのまま岩沼へと向かい、地区総会に出席してきました。組織を運営していく上で、会議というものは間違いなく重要なものです。しかし、正直なところ、決して「楽しいもの」ではありません。長時間の話し合いを終えて家路につく頃には、肩にずっしりとした重みを感じ、心身ともに静かな疲労感が広がっていました。
私たちが生きる日常は、このような「義務」や「調整」の連続です。神様を見上げる熱い礼拝の直後であっても、私たちはすぐさま、現実の泥臭い話し合いや、エネルギーを消耗する業務へと引き戻されます。これは、現代社会で働く多くの皆さんが、日曜日の夜や月曜日の朝に感じている「ため息」と、とてもよく似ているのかもしれません。
消耗する日常と、情熱の在り処(ありか)
今週もまた、慌ただしく忙しい一週間が始まります。会議の疲れを引きずったまま、次々と押し寄せるタスクをこなしていかなければなりません。しかし、私の心の奥底には、その疲労を貫いて燃え続ける一つの確かな光があります。それは、来る31日に控えている「静岡草深教会」での青葉伝道礼拝、そして礼拝後の講演会です。
私にとって、これこそが自分の命を注ぎ込むべきメインの働きです。そこで語るべき言葉があり、出会うべき魂があります。だからこそ、万全を期して臨みたい。その日のために、心と体のコンディションを最高に整えていくこと。それは単なる体調管理ではなく、神様の器として自分自身を「チューニング」する神聖な作業なのだと、改めて気づかされます。私たちは、ただ消耗するためだけに生きているのではありません。
- 「自分は結局、何のためにこの忙しさを耐えているのか」
- 「私の情熱の本当の在り処は、どこにあるのか」
この軸が定まっているとき、私たちは日々の地味な会議や疲れる業務のなかでも、決して自分を見失うことはないのです。
疲労のなかに吹く「新しい風」
聖書は、疲れ果てた現代の私たちに、このような普遍的な希望を語っています。
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(コリントの信徒への手紙二 4章16節)
ペンテコステに降った聖霊は、決して派手な奇跡を起こすためだけのものではありませんでした。それは、日々の会議に疲れ、人間関係に悩み、重い足を引きずる私たちの「内なる人」に、もう一度、新しく温かい息吹を吹き込むための「命の風」です。
私たちが「疲れた」「しんどい」と素直に認め、その弱さを隠さずに神様の前に差し出すとき。聖霊の風は、私たちのさびついた心の隙間を吹き抜け、明日へ向かうための静かな力を満たしてくださいます。完璧な環境が整わなくても、心身のコンディションを神様に委ねながら整えていくプロセスそのものが、美しい信仰の歩みなのです。
それぞれの場所で、光を放つ
ふと見ると、娘がアルバイトへと出かけていきました。 彼女には彼女の、若く、そして真剣な戦いの場所があります。私が次の日曜日の礼拝に向けて準備をするように、彼女もまた、自分の持ち場で一生懸命に汗を流しているのです。その小さな後ろ姿を見送ったとき、私の胸に深い感謝の念が湧き上がってきました。
誰もが皆、それぞれの場所で、見えない重荷を背負いながら頑張っています。教会での奉仕も、職場での会議も、アルバイトでの接客も、すべては神様が与えてくださった尊い「生きる現場」です。
もし今、あなたが週の初めの疲れや、日々の消耗に押しつぶされそうになっているなら、どうか深呼吸をして、聖霊の風を胸いっぱいに吸い込んでみてください。
あなたは、そのままで十分に頑張っています。疲れたときは少し休んで、自分の心と体のコンディションを優しく整えてあげてください。あなたの魂のチューニングが整ったとき、そこから奏でられる音色は、必ず誰かの心に届くはずです。それぞれが与えられた持ち場で、命の輝きを放つことができますように。
今日も、共に前進です。
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