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2026年5月10日日曜日

飽和を越える「一瞬」の尊さ

 


鮮烈な「最初の一口」に、永遠を垣間見る ―― 飽和を越える「一瞬」の尊さ

朝の光に洗われた感覚の芽吹き

今朝も五月の清々しい空気に包まれながら、私は自身の内に目覚める感覚を静かに見つめていました。一日の最初に口にする冷たい水、走り出して最初に肺に満ちる澄んだ空気、そして愛犬ノアの頭を撫でる時の掌の温度。

私たちは日常の中で、無意識に「最初」の瞬間を求めています。一瞬の喜び、楽しさ、美味しさ、そして幸福感。それらが「最初」であるとき、私たちの感覚は最も鮮烈に、そして最高潮に震えるようにできています。


 


慣れという名の「飽和」

どれほど美味しい料理であっても、二回目、三回目とその味を重ねるうちに、最初の一口で感じたあの衝撃的な感動は、少しずつ影を潜めていきます。喜びも、幸福感も、それが日常の当たり前になった瞬間に、私たちはその鮮やかさを失ってしまうのです。

人は毎日、絶え間ない幸せや喜びを求め続けます。けれど、刺激が日常化すれば、それはもはや刺激ではなくなります。「毎日の幸せ」が維持されることを願うほど、皮肉にもその価値は摩耗していく。それが、私たちが生きるこの世界の不条理な姿なのかもしれません。世間の流行や、絶え間なく消費を促す情報の流れは、「もっと、もっと」と私たちの渇望を煽り立てます。その濁流の中で、いかに自分らしく、惑わされずに生きられるか。それが、私たちが直面している静かな戦いです。


 


「たまに」の恵みを数え上げる

この世が「最初」のものを最良とするように造られているのであれば、私たちは「たまに」訪れる恵みをこそ、宝物のように扱うべきなのでしょう。

聖書は、私たちが日々の糧に感謝しつつも、この世の形あるものに心を奪われすぎないよう、こう諭しています。

「持っているものは、持っていない者のようになりなさい。この世のものを利用する者は、それを使い尽くさないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。」(コリントの信徒への手紙一 73031節)

すべてが移ろい、過ぎ去っていく不条理な世界だからこそ、私たちはその「一瞬」を使い尽くさず、執着せず、ただ「今」与えられている喜びを、そのままの鮮やかさで受け取るのです。


 


不条理の中で「自分」を走らせる

週に百キロを走る私の日々に、同じ道はあっても、同じ走りは一度としてありません。  今日の風の冷たさ、脚の重み、そして空の色。それらはすべて「最初」であり、唯一無二のものです。毎日が最高である必要はありません。むしろ、不調な日や、何も感じられない無味乾燥な日があるからこそ、時折訪れる「鮮烈な喜び」が、私たちの魂を深く潤してくれるのです。世の流れが幸福の量を競うなら、私たちは幸福の「質」と、それを受け取る「心」の静けさを大切にしたいものです。


 


最初の一歩を、新しく

もし、あなたが今、繰り返される日々に退屈し、幸せが目減りしているように感じているなら。 一度、立ち止まって深呼吸をしてみてください。そして、当たり前だと思っていた「今」を、もう一度「最初の一瞬」として味わい直してみてください。

最初の一口、最初の風、最初の対話。その新鮮な驚きこそが、不条理な世界を生き抜くための、神様からの贈り物です。世間の流れに背中を向け、あなただけの確かな一歩を踏み出しましょう。

今日も、共に前進です。

娘は今日、バイトに元気に出かけていきました。

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